第8話 姫神子、兆しの夜に

夜の神殿は、息をひそめるように静かだった。

 昼間は絶え間なく吹き抜けていたはずの風も止み、風鈴は一度も鳴らない。萌は布団の中で目を閉じても、眠りの気配が遠ざかっていくのを感じていた。


「……ねぇ、声、聞こえてる?」

 かすかな囁きが暗闇に落ちる。隣で横になる兄が「聞こえてるよ」と答えると、萌は胸に溜まった息を吐き出した。だが、不安は消えない。


 やがて瞼の裏に、夢が滲み始める。


 口を開いても声は響かず、代わりに光の粒がこぼれ落ちる。宙に舞った粒は水面に溶けるように消え、世界はますます沈黙に沈んでいく。

 周囲には透明な「風の柱」が立ち並び、月光を映した水晶のように澄んでいた。だが一本だけが、墨を垂らしたように黒く濁り、震えている。


 萌はその柱へと足を運ぶ。歩くたびに足元の白砂がさらさらと崩れ、音を失った世界に吸い込まれていく。


黒ずんだ柱に近づいた瞬間、風鈴がひとつ――逆さに鳴った。

 澄んだはずの高音が、低く沈む軋みに変わり、夢の空間を濁らせる。


 萌は足を止めた。胸の奥がざわつく。

 声を取り戻そうと必死に叫ぶが、喉からこぼれ出るのは自分の声ではない。

 冷ややかな囁きが、まるで彼女の口を借りて響いていた。


 ――…メ……ミコ。


 耳に甘く絡みつく声。それは確かに「姫神子」と呼んでいる。

 けれど、温もりはなく、氷の刃が心臓を撫でるような冷たさだった。


 萌は震える手を柱に伸ばした。指先が触れた途端、世界の空気が一斉に吸い込まれるように揺らぎ、光の粒が渦を巻いて消えていく。


 「……っ!」


 息が詰まり、視界が暗転する。

 最後に耳に残ったのは、黒い柱の奥から届いた、かすかな笛の音だった。


萌ははっと目を覚ました。

 布団の端を握りしめ、肩で息をする。冷たい汗が額を伝い、胸の鼓動がまだ夢を引きずっている。


「……お兄ちゃん」

 掠れた声で呼ぶと、すぐ傍から返事があった。


「どうした、萌?」


  萌はしばらく言葉を選んでいたが、やがて震える声で告げた。

「夢の中で……声が出なかったの。光になって消えていって……それに、黒い風が……」


  兄は黙って頷き、額にかかった髪をそっと撫でた。

「大丈夫だ。俺が確かめてくる。風の道がどこで途切れているのか」


  萌は小さく首を振る。

「……怖いの。声が、届かなくなるのが」


「届くさ」兄は静かに断言した。「どんなに風が止まっても、俺には聞こえる」

  その言葉に、萌はようやく目を閉じることができた。



---


 翌朝。

 兄は神殿を後にし、村を巡り始めた。


 森へ続く小径は、いつもなら鳥の声や虫のざわめきに包まれているはずだった。

 だが今日は、途中で音がふっと途切れる。

 葉はあるのに一枚も揺れず、空気は水底のように重たかった。


 兄は足を止め、胸いっぱいに息を吸い込む。

 その時、鼻をかすめたのは焦げたような匂い。だが煙はどこにもない。


「……風が澱んでる」

 思わず声に出した瞬間、微かな音が耳を打った。

 遠くで笛を吹くような、高く細い音。だがその響きは不安定で、鼓動の間隔に合わせて震えていた。


 背筋に冷たいものが走る。

 風はただ止まっているのではない。何かに歪められている――兄はそう確信した。


村の井戸端で、桶を担いでいた若者がふいに膝を折った。

「うっ……」

 土埃を巻き上げて倒れる姿に、周囲が一斉に駆け寄る。


「祟りだ!」「風が止まったせいじゃ!」

 怯えた声が飛び交い、空気がざわつく。


 兄は慌てて若者に近づき、肩を支えた。

「しっかりしろ!」

 若者は額に汗を浮かべながらも、薄く笑ってみせる。

「……だ、大丈夫です。ちょっと目眩がしただけで……」

 そう言って立ち上がろうとする姿に、村人たちは口々に安堵の声を漏らす。


 兄は皆を振り返り、声を張った。

「恐れるな。……姫神子がいる。あの子の祈りが、この村を守ってくれる」

 その言葉にざわめきは次第に静まり、人々の顔にわずかな安心が戻った。

 だが、兄の胸には不安の影が渦を巻いていた。



---


 その時、杖をついた老人がゆっくりと近づいてきた。

 目の下に深い隈をつくり、声を低く落とす。

「わしも……このところ眠れんのだ。変な夢ばかり見る」


 村人たちは顔を見合わせる。

「夢……?」


 老人は頷いた。

「声を出そうとしても、何も響かん夢じゃ。何度も何度も同じ夢を見る。まるで……命を奪われていくような」


 口元に苦笑を浮かべ、「年のせいかもしれん」と言い添えたが、村人の背筋に冷たいものが走った。

 兄は息を呑んだ。

(……萌の夢と同じだ)


兄は村人を落ち着かせたあと、神殿に戻る足を途中で止めた。

 足元の土の感触が、心に引っかかっていた。


 ――風の道が、まだ見えていない。

 このままでは眠れない気がした。


 再び森へと足を向ける。風が吹けば、枝が揺れる。小鳥が鳴き、虫が羽音を立て、川がせせらぎを奏でる。

 それが“当たり前”だった。


 だが、森を深く進むにつれて、音が一つずつ消えていった。

 さっきまで聞こえていた鳥の声が途絶え、川のせせらぎも水の流れを感じさせないほど遠のく。

 葉の擦れ合う音さえ、空気に沈んでいくようだった。


 狼の遠吠えが一度、遠くの尾根から聞こえた。

 それは、いつも夜になる前に響く合図のようなものだった。

 しかし今日、その声は一度きりで止まり、それきり何も聞こえなかった。


 兄は一歩踏み出すたびに、足音のなさに不安を覚えた。

 森が、生き物の気配ごと息を潜めている。


 その時だった。


 細い獣道の先――一本の木の影から、何かの気配が現れる。

 反射的に身構えると、そこにいたのは灰色の狼だった。


 がっしりとした体つき。光を映す瞳。

 それは確かに野生の獣だった。だが――何かが違った。


 狼は唸り声を上げることもなく、低く首を垂れたまま、じっと兄を見つめていた。

 威嚇でもなく、狙うでもなく。

 まるで……自分も迷っているようだった。


(……こいつも、怯えてる)


 兄が一歩動くと、狼はぴくりと肩を揺らし、足を引く。

 そして何も言わずに、森の奥へ身を翻し、草の中へ静かに消えていった。


 風は吹かない。

 笛のような音も、どこかで鳴っているはずなのに、耳の奥ではただ鼓動だけが響いていた。


狼が去ったあと、兄はさらに森の奥へと足を踏み入れた。

 足元の感触が変わった。

 湿った苔が靴底にまとわりつき、空気はどこまでも重い。


 木々の合間に、小さな空き地のような場所が広がっていた。

 中央には、苔むした石の台座。かつて祠があったのか、古びた木片がその周囲に散らばっている。


 そこだけ、風が完全に止まっていた。

 音も、匂いも、空気の流れさえも消えている。


 兄は静かに膝をつき、土に触れた。

 冷たい。凍えるような湿気。

 まるで何かが地中に吸い込まれているようだった。


 (……ここだ)


 心臓が静かに打つ。

 風の道は、ここで途絶えている。

 村の生命線が、この地で切れている。


 ――どうすれば、元に戻せる?


 手を強く握りしめた。

 風のことを伝え、祈りを編むしかない。

 でもそれを行うのは、他でもない……萌だ。


 あの子は、まだ小さい。

 恐怖に震えながら、必死で祈っている。

 なのに自分は、姫神子だからといって、またあの子を危険な場所へ引きずり出すのか?


 守りたい。誰よりも、あの笑顔を。

 けれど、彼女の祈りなくして、この風は戻らない。

 ただの兄ではいられない。


 兄という立場と、姫神子を導く者という責任。

 二つの想いが胸の中でせめぎ合い、深く沈んでいく。


 「……くそ」

 誰にも届かない森の中で、小さく吐き捨てた。

 けれど、答えはすでに出ている。


 兄はゆっくりと立ち上がった。

 この場所を、記憶に焼きつけるように見つめながら。


森を抜けたときには、空の端が墨色に染まり始めていた。

 夕暮れの光が村を照らし、人々はそれぞれの家へと戻っていく。

 けれど、風はまだ戻らなかった。

 風鈴は沈黙したまま、ただ軒先で揺れているだけだった。


 神殿に戻ると、廊下の先から淡い灯明の光が漏れていた。

 襖の向こう、萌は布団に横たわって眠っていた。

 幼い寝息が、わずかに空気を震わせている。


 兄はそっと近づき、跪いて彼女の額に手を伸ばしかけ――

 そのまま拳を握りしめた。


(明日、伝えなければならない)


 風の道がどこで途切れていたのか。

 祠の跡で感じた、底知れない静寂。

 そして、あの狼の瞳に宿っていた、言葉にならない怯え。


 祈りがなければ、あの風は戻らない。

 だがそれは、姫神子としての彼女に――あまりにも過酷な試練だった。


 兄は灯明の揺れを見つめた。

 そのとき、神殿の奥で――


 「ちり……」


 風鈴が、一度だけ鳴った。

 けれどその音は、普段の澄んだ音ではなかった。

 金属の芯を逆から弾いたような、どこか鈍く歪んだ音。


 兄は顔を上げ、無言で夜の闇を見つめた。


 それは、ただの風ではない。

 異変の兆しが、音を伴ってこの神域へと届いたのだ。

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