時限砂時計―人生は一度きりの物語―
千日 匠
序章 運命という名の砂粒
人は皆、死に向かって歩いている。
それを忘れるから、人は生きていけるのだ。
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雨が、新宿の街を濡らしていた。
三十五歳の春日井恵理奈は、傘も差さずに夜の街を歩いている。残業を終えた帰り道、いつものように歩いている道で、いつものように何も考えずに。
恵理奈の人生は、完璧に計画されていた。
大学は早稲田の経済学部。就職は大手商社の三菱物産。恋人は同期入社の田中雅人。三年間の交際。結婚の話題が出れば「まだ早い」と返す。すべてが予定調和で、すべてが安全圏内で、すべてが――つまらなかった。
(でも、それでいい)
恵理奈はそう思っていた。少なくとも、今夜までは。
足を滑らせたのは、偶然だったのだろうか。
それとも、運命が彼女を導いたのだろうか。
古い骨董品店の前で、恵理奈は転倒した。膝を擦りむき、スーツが汚れる。立ち上がろうとした時、店の扉が開いた。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
声の主は、七十歳ほどの老人だった。白髪に深い皺、しかしその瞳だけは若々しく輝いている。
「あ、はい。すみません、大丈夫です」
「いえいえ、どうぞ。傷の手当てをしましょう」
老人――店主の桐生老人は、恵理奈を店内に招き入れた。
店内は薄暗く、無数の骨董品が並んでいる。時代も国籍もバラバラな品々が、まるで時の迷子のように佇んでいた。
「少し、沁みますよ」
消毒薬を塗られながら、恵理奈は一つの品に目を奪われた。
ガラスケースの中に鎮座する、美しい砂時計。
黄金色に輝く砂が、まるで星屑のように煌めいている。上部の砂は、およそ三分の一ほど。
「綺麗ですね」
恵理奈がそう呟くと、桐生老人は振り返った。
「ああ、それは特別な品でして」
老人の瞳が、一瞬だけ光る。
「『時限砂時計』と呼ばれています。持ち主の残り時間を、正確に示してくれるのです」
「まさか」
恵理奈は苦笑した。
「そんな馬鹿な話があるわけ――」
言いかけて、止まった。
砂時計が、微かに光を放っていたからだ。
「信じられませんか? まあ、そうでしょうね。現代人は、奇跡を信じることを忘れてしまいましたから」
桐生老人は悲しそうに微笑む。
「でも、あなたは違う。あなたの瞳は、まだ何かを求めている」
恵理奈は立ち上がった。傷の痛みなど、どうでも良くなっていた。
「ありがとうございました。では、失礼します」
背を向けて歩き出す恵理奈に、老人の声が追いかける。
「お嬢さん」
振り返ると、老人が砂時計を手にしていた。
「これは、あなたの物です」
「え? でも、お金も――」
「代金は、既に支払われています」
老人の言葉の意味が分からない。支払い? 一体誰が?
「あなた自身によって、です」
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