第24話「戦いの果てに」
ついに、女牢蜘蛛との死闘に終止符が打たれた。
しかし――安堵の間もなく、屋敷を覆う血花桜が再び牙を剥く。
烈風が奔り、結界が閃き、そして原初の炎が燃え上がる。すべてが交錯する中、想いと力が激突し、物語は最終局面へ。
積み重なった因縁が、いま一つに収束する。決戦の果てに、何が残り、何が失われるのか――。
◇ ◇ ◇
笠井の烈風が、血花桜の巨枝を容赦なく叩き斬り、地を這う根の蠢きも次第に鈍っていった。
風圧に散った花弁は血の色を帯び、夜空を流星のように舞う。
(……押し切れる!)
理恵の胸に確信の灯が宿る――が、その瞬間。
「う……っ!」
女牢蜘蛛との死闘で刻まれた深層の損傷が、突如として牙を剥いた。
脚に電流のような痺れが走り、膝がわずかに沈む。
「お嬢様!?」
その一瞬を、血花桜は逃さない。地を裂く轟音と共に、槍のように尖った根が一直線に走る。
梓が結界を展開しようとする――だが刹那、間に合わない。
「くっ!」
時間が粘つくように遅れ、理恵の視界いっぱいに迫る“死”の影――
グサッ!!
「――百希夜さんッ!」
鈍い衝撃と共に、理恵の前に立ちはだかった影。
それは、自らの命を盾にした和泉だった。
「がはっ……!」
反射的に理恵は根を斬り払う。だが舞い散った毒花粉が傷口に降り積もり、血を瞬く間に黒く変えていく。
「……大丈夫……かい?」
「喋ってはなりません!」
和泉は薄く笑みを浮かべ、腹に突き立つ根を引き抜く。瞬間、毒は全身を奔り、血管を墨のように染め上げた。
「梓! 浄化を!!」
『かしこまりました!』
光が外傷を覆う。だが、毒は怨霊のように肉体の奥を這い、浄化をすり抜け心臓へ迫る。
「……ぐっ」
『和泉くん!?』
視界が波打ち、世界の輪郭が溶ける。音が遠ざかり、雷鳴のような鼓動だけが胸を叩く。
(……情けないな、俺)
仲間はまだ戦っている――なのに、自分は地に伏す。
(まだ……倒れるな……!)
意志とは裏腹に、四肢は鉛のように沈み、意識は闇へと沈む。
◇ ◇ ◇
――その闇の中で。
陽光差し込む庭。白い柵越しに揺れる初夏の青葉。笑う幼い自分。霞む両親の影。
その奥に――赤い靴の少女。
深紅の皮は擦れ、つま先には小さな泥の痕。小石を踏むたび、「コツン」と乾いた音が胸奥を叩く。風に混じって、微かな桜の匂い。
(……あれは……誰だ?)
名も、声も思い出せない。だが、魂の奥を震わせる感覚がある。
少女が振り向く――その唇が動きかけた瞬間、足元で鎖が断ち切れる音。
胸の奥に封じられた“名”が、水面から浮かび上がるように姿を現す。
「……
その名を紡いだ瞬間、世界が息を呑み、音が消えた。
大地の底から破砕音。亀裂から、冥府の光が噴き出す。
這い出たのは鋼鉄の甲殻に覆われた終末の百足。
夜空を映す甲殻は星の瞬きすら呑み込み、一本ごとに斬馬刀の威を宿す脚。
甲殻の隙間から滲む紅蓮は天地創世の炎。
顎門奥で揺らめく原初の火種――
それは古き神話に語られる、大地を喰らう厄災――《白影》。
和泉 百希夜の魂に宿る、災厄の悪鬼。
『……あれが……』
七瀬の声は震え、理恵は息を呑む。本能が告げる――これは理の外の怪物だ。
「くそ……目醒めやがったか」
笠井の低い呟き。
ガアアアアアアアアアア!!
天地を揺らす咆哮。血花桜が全枝・全根を総動員し襲いかかるが、その猛攻は一撃たりとも白影の甲殻を貫けない。
花弁を嵐のように散らし、毒霧を夜気に混ぜる――だが白影は紅蓮の息吹で一瞬にして吹き飛ばす。
「おお……これが……!」
朱天は狂気の笑みを浮かべる。
白影が天を衝き、紅蓮の光を溢れさせる。熱で空気が悲鳴を上げ、遠方の家屋が自然発火する。
「七瀬! 藤本さん! 結界を最大まで!!」
『先生は!?』
「俺は外で逸らす!」
白影の口に、世界を滅ぼす紅蓮が満ちる。
――ゴオオオオオオオ!!
夜空が裂け、血花桜を呑み込む灼熱の大海。空も大地も、結界の内側さえ赤に沈む。
笠井は
脳裏をかすめる――救えなかった顔。かつての仲間、依頼人、家族。
その痛みが、風をさらに鋭くする。
やがて炎が途絶え、夜が戻る。血花桜の跡には炭化した大地と白煙だけ。
(……終わったか)
誰もがそう思った。
だが。
ガアアアアアア!!
主を失った大百足は狂ったように暴れ、現実世界をも脅かす。笠井も全身は焼け爛れ、吐血が止まらない。
『先生、もう無理です……!』
それでも立ち上がる。
「奴を……止める」
ふらつきながら大百足へ歩む。
「……世話の焼ける弟子だ」
微笑し、
白影が再び紅蓮を集める。笠井の瞳は逸れない。
「来いよ……俺が相手だ」
視線が交差した瞬間、世界が軋む。
砕けた風塵鴉鎚から奔流の風が矢となる。
「これで……終わりだ!――『
嵐を孕む矢が天を裂き、紅蓮を左右に割り、白影の眉間を撃ち抜く。
断末魔と共に巨体は灰となり、夜空へ溶けた。
……静寂。
冷え始めた夜風が、焼け跡を渡り、灰をさらっていく。その灰は、まるで何事もなかったかのように静かに夜空へ消えていった。
◇ ◇ ◇
――そして、誰もいなくなった世界は、静かに崩壊を始めていた。
地はひび割れ、空は裂け、すべてが泡沫のように溶けていく。
光も音も温度も、色褪せた絵の具のように退色していった。
その終焉の中に、一人の影が立っていた。
――少年である。
かつて町の象徴だった桜の樹の“跡”に立ち、焦げた地面を見下ろす。
焼け焦げた匂いが、まだ皮膚にまとわりつく。
「……綺麗だね」
その声には熱がなく、湖面に小石を落としたように波紋も広がらない。
視線の端に、赤い光が揺れた。
少年は無言で膝をつき、焦げ土を指先で掘る。
やがて指に触れたものは、ひどく冷たかった。
「……ふむ」
掌に収まったのは、深紅に染まった異様な“種”。
表面には細い亀裂が走り、そこから微かに脈動する赤光が漏れている。
その脈は――まるで胎児の心音。
転がすたびに、鈴のような、しかし湿った音が響いた。
その音に合わせるように、少年の唇がわずかに吊り上がる。
(……出来た)
その眼差しの奥で、血と炎を乗り越えた和泉の影がかすかに揺らいだ。
「……次も、楽しませてくれよ、開現師」
吐息のような囁き。
握った拳がじわりと熱を帯び、掌の中で“種”がひときわ強く脈打った。
その瞬間、どこからともなく、歌声が流れる。
「好~きです、好~きです、心から~♪」
声の主は見えない。
だが音は、光と共に町全体を覆い――白い閃光が全てを呑み込んだ。
◇ ◇ ◇
――事件から数日後、京都某所・
「ふん……まあ、今のお前では、この程度か」
広間に響くのは、父・
床の間の香炉からは、沈香の煙が細く立ちのぼっている。
理恵は背筋を伸ばし、戦果と経過を淡々と報告し終えた。
だが胸の奥には、あの夜の炎と咆哮がまだ焼き付いて離れない。
「しかし……理恵、あなたならもっと上手くやれたはずではなくて?」
母・
微笑を浮かべながらも、その瞳は氷のように透き通っている。
「お言葉ですが、お嬢様は十分に――」
梓が口を開く。しかし、由美の一言がそれを切り裂いた。
「……お黙りなさい。あなたに話してはいません」
その声音は、扇の先で喉元をなぞるような鋭さだった。
空気がわずかに沈む。
「理恵。あなたはいずれ、この“來瀬川”を背負う身……その意味、理解しているのでしょうね?」
「はい、御母様」
天真爛漫な笑みは影を潜め、瞳は静かに伏せられる。
――彼女もまた、澄香と同じく、この家の名に縛られている。
けれど、胸の奥では炎が燻っていた。
(……あの夜、私が見た背中。あれが……私の答え)
迷いを押し殺し続けた年月。
だが、あの戦場で和泉たちと肩を並べた時、自分は確かに生きていた。
「私は……」
由美の眉がわずかに動く。
「私は――彼らと共に戦いたいです」
母の口が開きかけた瞬間、父の低い声が重なる。
「本当に、それが望みか」
「はい」
迷いなき声。視線が真っ直ぐ交わる。
◇ ◇ ◇
――数日後、
「ただいま戻りました~……って、はぁ……疲れた……」
和泉は迷い猫を探し回った帰り。
靴を脱ぎ、ふと視線を落とすと、見慣れぬ下駄と靴が並んでいる。
「……ん?」
奥へ進むと――
「お疲れさまです、百希夜さん」
ソファに理恵、その背後に梓。
窓から差し込む午後の光が、理恵の髪を淡く照らしている。
「あれ、二人とも……なんで?」
「いやいや、お待たせしました~」
給湯室から七瀬がお茶を持って現れる。
湯気が立ちのぼり、事務所に柔らかな香りが広がった。
「お気遣いなく」
梓が一口すすり、無表情で言う。
「ふん……茶葉は良いものですが、淹れ方は及第点ですね」
「ぐぬぬ……!」
「じゃあ、次はコーヒーを淹れます!」
「いえ、コーヒーは私が」
「こら、梓。張り合わないの」
――会話の主導権は女性陣に。
「で、なんで二人がここに?」
「あれ、所長から聞いてなかった?」
七瀬が首を傾げる。理恵が立ち上がり、姿勢を正す。
「改めまして――本日からこちらでお世話になります、來瀬川理恵です。百希夜さん、よろしくお願いします」
凛とした面差しの奥に、無邪気な笑顔が咲く。
その笑顔は、あの夜の炎にも負けなかった光だ。
(……また、賑やかになるな)
和泉は、わずかに口元を緩めた。
その瞬間、事務所に心地よい風が吹き抜け――外の通りの向こうで、見知らぬ赤い靴が、ひとりでに石畳を踏み鳴らした。
――新たな仲間を迎え、物語は次の舞台へと進み始める。
◇ ◇ ◇
【後書き】
第三章「紫苑の令嬢」、無事に完結いたしました! ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。皆様の応援があったからこそ、最後まで走り抜けることができました。
今回、新キャラクターとして登場した「
理恵は、最初はお嬢様ではなく、真面目な優等生という設定でした。 しかし、物語世界を掘り下げるうちに「來瀬川という豪族の令嬢」という背景が加わり、現在のキャラクター像が出来上がったのです。 彼女のヴァジュラ――「
(ちなみに、もう一人の新キャラ「
そして次回からは、 「第四章:
それでは、また「第四章:青き新星編」でお会いしましょう。
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