押しかけペットは家事が得意な神獣でした 〜もふもふ同居生活、始めます〜

青によし

第1章 ペットが欲しいだけだったのに①


「これぞ、やることに意味があるの典型ね」


 職場でのストレスチェックが義務化された。だからといって、働く自分には関係ない。ストレス値が高ければ、しかるべき医療機関を紹介できますよと表示されて終わりだ。


「月宮さん、こんな時間だけど見積もりお願いできるかな。頼むね」


 急に声をかけられたかと思えば、問答無用でデスクの上に書類が置かれた。時計を見ると、定時である18時の5分前だった。頼んだ当人は澄香の返答を聞くことなく、出口へと消えていく。まさに言い逃げ状態だ。


「当然の結果……か」


 画面に表示された結果は『ストレス値:高』だった。

 ため息を付きながら、ぼうっと画面を眺める。広告のバナーが目に留まった。【あなたにぴったりの癒やしをお届けします】という文字が、異様に光って見えた。




 月宮澄香(つきみや・すみか)は、都内の広告代理店に勤めている。地元ではそこそこ有名な女子大を卒業して、就職と同時に上京してきた。まぁ、地元を出てしまえば大学名など何の力にもならないけれど。


 新卒で採用されてもう五年、若手と呼ばれる時期は通り過ぎて、澄香は二十七歳の中堅社員だ。ある程度仕事が出来るようになってきたせいか、営業担当が何でも気軽に頼んでくるようになった。自分の力を必要としてくれているのだと、嬉しく思っていたのは遠い昔。お礼を言われるでも、感謝をされるでもない。今では単なる便利屋扱いなのではと感じ始めた。


 でも、今さら断れない己の性格が恨めしい。波風立てるのが怖くて、文句の一つも言えやしないのだ。だけど、そんな自分が情けなくて、もっと嫌になる。




「甘んじて受け入れてる私が、悪いんだ」


 澄香は缶ビールをあけ、勢いよく数口飲んだ。苦みが一気に染み渡る。

 二時間の残業後、閉店間際のスーパーで買ってきたアルコールと惣菜が今夜の晩餐だ。最後に自炊をしたのはいつだっただろうか。思い出せない自分が情けなくなった。


 分かっている。声をあげなければ何も変わらないのだと。それでも、意気地無しな自分は、相手を不愉快にさせることが怖い。現状維持でいいじゃないかと逃げようとしてしまう。


 缶をローテーブルの上に置く。カツンという小さな音が一人暮らしのワンルームに響いた。それはテレビも付けていない部屋の中で、微かに聞こえる家電のモーター音に溶け込む程度の音だった。その直後、硬いもの同士のぶつかる音が耳に強く刺さる。隣人が立てるドアの開閉音だ。どうしてあんなに激しく閉めるのだと、無性に悲しくなってくる。自分はこんなにも静かに過ごしているのにと、酔っているせいか、こんな些細なことで涙が出そうになった。


「つらい……」


 空になった缶が三つを超え、澄香の意識は今にも落ちそうになっていた。その朦朧とした頭に、会社のパソコン画面に表示された広告バナーが思い浮かぶ。


「そうだ。私には癒しが、必要なんだ」


 スマホを取り出し、検索画面を表示させる。

 エステやマッサージも良いが、いちいちそこへ行かなければならないし、やってもらう人に気を遣ってしまいそう。それでは、結局気が休まらない。


「癒やし……そうだな、もふもふのペットとか、いいな」


 もっと精神的に癒やされたい。自分だけを信頼して、愛情を向けてくれる存在。なんて素敵なのだろうか。そうだ、これしかない。


 澄香は酔いに揺れる指先で、何度も間違えながら『癒やし・ペット・もふもふ』と打ち込む。


「あー、なんかいっぱいでてきたぁ……ふふ、どんなもふもふがいるのかなぁ」


 パンみたいなワンコ、高飛車なお姫様みたいなネコ、長い耳がキュートでふわふわな白ウサギ、滑車の中を必死で走るハムスター、どのもふもふも可愛らしくて胸がうずいてしまう。


 気の向くまま、適当に見ていく。すると、また妙に目を引かれるあの広告バナーがあった。吸い寄せられるように、澄香はそのバナーをクリックする。だが、そこで限界とばかりに急激な眠気が襲ってきた。


「……ねむ、い」


 明日も会社なのに飲み過ぎちゃったなぁと思いながら、睡魔には勝てず目が閉じていく。


 操作途中のスマホから風が出ている気がした。柔らかい、春の草花の匂いだ。いつのまに送風の機能がついたのだろうか。便利な世の中になったものだと思いつつ、どこかおかしいような気がした。でも、何がおかしいのか酔った頭では分からない。そして、いつの間にか意識は落ちていった。




 ***




 どこか懐かしい、出汁の香り。幼い頃の夏休み、泊まりにいった祖母の家の朝を思い出す。もう訪れることない、過ぎ去った懐かしさが蘇る。あぁ、祖母の作ってくれた味噌汁が飲みたい。


 少し覚醒してきた頭で、これは夢だなと思った。一人暮らしなのだから、澄香自身が作らねばこの出汁の香りがするわけない。心地の良い夢だが、そろそろ起きなくてはと思った。だって、今日は金曜日だったはず。あと一日、何とか乗り切らなくては――――あれ、と違和感に気付く。


 澄香は頭を上げると、自身に掛けられたブランケットが見えて首を傾げる。肌寒さを感じて、酔いながらも自分で持ってきたのだろうか。だが、疑問はそれだけではない。匂いがするのだ。夢の中で漂っていた美味しそうで懐かしい出汁の香りが。


 お隣さんが朝食を作っているのだろうかと思ったが、深夜も物音が多い隣人はきっと夜型だ。早起きして食事を作るタイプには到底思えない。それに、信じたくはないが、キッチンの方で何かの気配がするのだ。


 現状、澄香はソファーとローテーブルの間のカーペットに横たわっている。そのためワンルームの部屋だがキッチンはソファーで隠れてよく見えなかった。

 確かめないわけにもいかず、恐る恐るソファーの下の隙間からキッチンの方を覗く。すると、やはりいたのだ、誰かが。狭い隙間からは白い靴下をはいた足が何とか見える程度。だが、足があるということは人間だ。ネズミとかなら嫌だけど安心できたのに。


 昨夜、帰宅したときに鍵をかけ忘れたのだろうか。一人暮らしをするにあたって、戸締まりはずっと気をつけてきたのに。だけど、侵入されているのは事実だ。

 逃げるにしても、キッチンの横を通らねば玄関には行けないし、どうしようかと冷や汗をかきながら考える。


「起きたようだな」


 急に発せられた低く凪いだ声に、澄香は飛び跳ねる勢いで上半身を起こし、思い切りローテーブルにおでこを打ち付けた。


「いだっ!」


 あまりの痛みに、目の前がチカチカとする。だが、侵入者に気付かれた以上、己の身を守らねばと必死でソファーにしがみつきながら起き上がった。だが、降ってきた言葉は澄香の危機感を裏切るものだった。


「平気か?」


 本当に心配しているのか疑問に思うくらいに、淡々とした口調だったが。だが、不思議と落ち着く声音に、肩の力が抜ける。


「だ、だいじょうぶ、です」


 反射的に普通に答えてしまった。そんな自分に呆れながらも、鍋の蓋を持ったまま近寄ってきた不審者の姿に澄香は唖然とした。


「なら、そろそろ身支度をしたほうがいい。朝餉の時間がなくなってしまう」


 抑揚のあまりない話し方は冷たい印象を抱くも、言っている内容は嫌に家庭的だ。和装の上に澄香のエプロンを着けているので余計にそう思う。だが、不審者の容姿が印象をさらに混乱させる。


 まずもって美しいのだ。声や体格で明らかに男性だと分かるが、朝の光の中で長いまつげが輝き、切れ長の相貌を際立たせている。整いすぎたその容貌は、まるで精巧に作られた人形のようにも思えた。もちろん、人形にしては巨大すぎるけれど。


 だが、美しさよりも驚きを与えてくるのは、頭上のふわふわとした白銀の髪から飛び出る三角の耳だった。まるで犬のようなその耳に、澄香の目は釘付けになる。


 ふわりと彼の背後で何かが動いた。名残惜しくも耳から視線を動かすと、何と髪と同じ毛色の尻尾がゆっくりと揺れているではないか。たっぷりとした毛量、手触りの良さそうな艶めき。澄香の手が無意識に伸ばされていく。あと少しで先っぽに触れそうだというところで、尻尾が遠ざかっていく。


「あぁ!」


 夢にまでみたもふもふが、手からすり抜けていく。何とも恨みがましい気分で、彼を見上げた。


 すると、ケモ耳の美丈夫は呆れたようにため息をついていた。美しい人はため息さえも新緑の香りがするらしい。


 新緑の香りって何だ……と我に返る。ここは屋内で、窓は閉まっている。ということは、明らかに彼から発せられているのだろう。ケモ耳とふさふさの尻尾をつけたあげく、ブレスケアもしているのか? もしこれがコスプレなのだとしたらどこを目指しているのか分からなくて怖いし、コスプレじゃなかったらもっと怖い。


「主よ、早く着替えた方が良いのでは?」


 澄香の混沌とした思考を遮るように、コスプレイヤーかもしれないイケメンが時計を指した。不審者には違いないが、言葉の端々にこちらを気遣うような温かさが潜んでいる気がする。


「待って、本当に時間ない」


 時刻は七時を数分すぎていた。始業時間からすればまだ余裕があるのだが、澄香はいつも早く出勤して雑務を終わらせている。このまま悠長にしていると、雑務をやる時間がなくなってしまう。

 この美しい不審者は気になるが、危害を加えてくる素振りはない。とにかく出社の準備を優先しようと、慌てて動き出すのだった。





「……信じられない!」


 ざっとシャワーを浴び、扉を開けるとバスタオルが置いてあった。バスタオルは干す場所を取るし、乾きにくいので、澄香はスポーツタオルで済ませているというのに。

 手に取ったバスタオルは洗い立ての香りがして、ふわふわの肌触りだった。一瞬癒やされるものの、問題はそこではない。いや、シャワー中に扉の向こうに近寄られていたことも問題だが、それ以上の大問題があるのだ。


 なんと、着替えまで用意してあったのだ。下着まできっちり。しかもご丁寧にちゃんとブラとショーツは同じ色を選んで置いてある。


「ちょっと、勝手に下着を触らないでください」


 バスタオルを体に巻き付け、キッチンへ向かって叫ぶ。すると、ケモ耳のついた頭を僅かに横に倒し、不審者がキッチン部分から顔を出した。


「主の衣服を用意するのは当然だろう。何を怒っているんだ? もしや、違う下着が良かったのか? だが、それが一番だと判断した。他のものは生地が伸びていたり、穴が空きそうになっていたり、サイズが合っていなかったり、仕事中につけるにしては派手な色合いだったりで、選択肢から外した。残る数着から同じ色合いを選ぼうとしたらそれしかなかった」


 さらりと告げる声には悪気は感じられない。だが、それが余計にこちらの羞恥心を煽ってくる。


「な、ななな、何いってるんですか! 女性の下着に触れるなんて非常識すぎます! 痴漢行為ですよ!」


 言い返しながらも、思い当たる節がありすぎた。恥ずかしくて一気に体が熱くなり、シャワーを浴びたというのに再び汗が出てくる。捨て時が分からず、ずっと使っている下着ばかりなのだ。それを見られただけで無く、冷静に分析されているなんて恥ずかしくてたまらない。


「ほら、布一枚でいると風邪を引く。早く服を着るがいい。その間に朝餉の支度を調えておこう」


 布一枚で叫ばせているのはあなたでしょうがと、更に叫びたかった。だが、これ以上は本当に風邪を引きそうだったので、しぶしぶ用意された下着と服を身につけるのだった。

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