港町アルベルタ物語
火浦マリ
第1話 マリアと煙草の香り
西の空が赤く染まり、港のクレーンの影が長く伸びる頃。
酒場「ランタン亭」のカウンターを、マリアは手ぬぐいで磨いていた。
潮の匂いに混じって、魚市場からは干物の香ばしい香りが漂ってくる。
遠くでは、蒸気船の汽笛が一声、低く響いた。
アルベルタは国境近くの交易港だ。
北から来た毛皮商人、南の群島から香辛料を運ぶ船乗り、武器を売る行商人——あらゆる人種がここに集まり、酒を飲み、取引をし、時には喧嘩をして帰っていく。
マリアは十年前、船乗りの夫とこの港にやってきた。夫はある航海を最後に戻らず、今はこの酒場を一人で切り盛りしている。
「よう、マリア。聞いたかい?」
軋む音とともにドアが開き、老船乗りのジョルが入ってきた。髭は白く、片目は古傷で閉じたままだ。
「何を?」
「軍艦だよ。今日の昼過ぎ、沖に停まったらしい」
ジョルは腰を下ろすなり、ラム酒を注文した。
「軍艦なんて珍しくもないだろ」
「いや、今回は様子が違う。積み荷が……妙なんだと」
彼は意味ありげに声を潜めたが、奥の席にいた若い船員たちは笑い飛ばした。
「どうせ密輸か何かだろ、ジョル爺さん」
「……かもしれん」
ジョルは肩をすくめ、酒を口に運んだ。
その時、ドアが再び開いた。
背の高い若い男が立っていた。浅黒い肌、髪は乱れ、服は破れて泥がこびりついている。
「……食べ物を」
片言の現地語で、男はしぼり出すように言った。
「ここは宿じゃないけど、腹が減ってるならスープくらい出すわ」
マリアは厨房に下がり、パンと温かい魚のスープを運んだ。
男はがつがつと食べ始めた。スープをすする音と、遠くの波の音だけが店内に響く。
ふとマリアの目に、男の右手が映った。焦げ跡のような黒い傷が走っている。
そして、破れた上着の内ポケットから、小さな包みの角が覗いていた。
厚手の布にくるまれたそれは、見慣れぬ模様が刺繍されている。
外で足音がした。
窓越しに、軍服姿の兵士が二人、通り過ぎていく。
男はスープを飲む手を止め、じっと背を向けたまま固まっていた。
兵士たちは特に目を留めず、そのまま去っていった。
やがて男はパンの最後の一口を飲み込み、深く礼をした。
「ありがとう」
その発音は少し柔らかく、どこか哀しげだった。
そして、夜の港へと消えていった。
マリアは皿を片付けながら、ふと鼻をくすぐる香りに気づいた。
煙草の匂い。だがこれは、この港で嗅ぐ安物の煙草ではない。
——行方不明のあの人が、航海から持ち帰った異国の葉巻と同じ匂いだ。
胸の奥がざわつく。
窓の外には、黒々とした軍艦のシルエットが浮かんでいた。
煙突からは、ゆっくりと灰色の煙が立ち上っている。
今夜、この港に何かが始まる予感がした。
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