第11話 記憶の断片②
時は再び数カ月前にさかのぼる。
環がレトロな喫茶店に行って、数週間後ほどのこと。
環は進路のことで、母と言い争いになった。
両親と3日ほど口を利いておらず、家に居づらかった。
環の家の親戚は医療業界で働く人が多く、両親は環にもその道に進んでほしいという希望がある様なのだ。
しかし、環は、これと言って何かになりたいとは考えていなかった。
強いていえば、絵を描くのが好きだった。
スマートフォンで調べるのは、美術系の大学ばかり。母親がテーブルの上に置いてある環のスマートフォンをちらりと見て、運悪く美大のホームページが表示されていた。母は烈火の如く怒りながら反対した。帰宅した父もそれに加わって環を責めた。
両親の言い分はもっともだと思う。美術大学に行ったからといって、それが仕事にできる人は少ない。両親は環のことを考えて言ってくれている。大学の学費を出してもらうのだから、確実に手に職をつけられる学部にすべき。
そんなことは、わかっている。
環も何がなんでも美大に行きたいという熱意を持っているわけではなかった。
でも、頭では理解していても、感情が追いつかなかった。
環のすべてを否定されたような気分になった。
私の人生なのに、自分のことすら自由にできないの…?
家に帰りたくなかった。
ずっと首を真綿で絞められているような息苦しさがあった。
かといって、同じクラスの友達は家に泊めてもらうほどの仲ではないし。
中高一貫の私立校に通っていたので、中学時代の友人とはたまに遊んでいたが、部活や塾でなかなか時間が合わない。
来年になれば、環も予備校で忙しくなるだろう。考えただけで気が重くなる。
ひとりで、どこか遠いところに行ってしまいたかった。
あの喫茶店に、また行ってみたいとも思っていた。
コーヒーも美味しかったし、あの喫茶店が醸し出すゆったりとした雰囲気を、また堪能したかった。
でも、どうしても……勇気が出なかった。
青年はまた来てね、とは言っていたが、リップサービスかもしれない。接客業なんだからその可能性がかなり高い。
もしまた店に行って、うわ、ほんとにきたよこいつ、と言う顔をされたら立ち直れそうにない。
拒まれるのが怖い。
あの優しさが、ただの社交辞令だったら──
そんな臆病な自分が心底嫌いだった。
そんな不安に押しつぶされて、何度も店の前まで行っては引き返していた。
でも、今日も喫茶店の前に来てしまう。
臆病な自分を変えたい。心の底ではそう思っていたのかもしれない。
(……また、来ちゃった……)
環は喫茶店のすぐ近くの通りに立っていた。
スマホをいじるふりをして、足は動かない。
ガラス越しに中をうかがう勇気もない。
やっぱりやめとこう。
立ち去ろうとした、そのときだった。
「やあ」
不意に背後からかけられた声に、環はビクリと肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこには──
あの青年が立っていた。
先日初めて出会った、栗色の髪の、静かで柔らかな雰囲気の青年。
穏やかで優しげな目元に黒縁の眼鏡を掛けていた。
今日は薄手のシャツにエコバッグを提げていて、中からバケットやたくさんのフルーツがのぞいている。
手をひらひらと環に向かって振っていた。
エコバッグがゆらゆらと揺れ、中からオレンジがぼとぼとと転がり落ちてきた。
「え」
「あれ?」
環と青年は顔を見合わせ、オレンジを拾い集めた。
オレンジをすべて拾い終わった頃、青年が口を開いた。
「何度か、店の前に来てたよね」
「……え……」
バレていた。恥ずかしすぎる。
環は手で顔を覆った。
穴があったら入りたい。
その様子を見ていた青年は、くすっと笑って話題を変えた。
「僕、ちょうど買い出しに行ってたんだ。パンと果物を切らしちゃっててね」
手提げ袋のバケットを指差しながら言う。
「今日は入っていきなよ」
喫茶店のドアを開けながら、そう言ってにこにこ笑う彼に、環は返す言葉を失っていた。
「うれしいなあ。また来てくれるなんて」
足元がふわふわするような、あたたかい空気だった。
不思議な人だ。
無意識に引き寄せられるように、彼の後ろについていってしまう。
青年が不意に振り返り、尋ねる。
「そういえば、名前……まだ聞いてなかったよね?」
「えと…九條環です」
「環ちゃんかあ」
バケットやフルーツなどをしまいながら、青年は自己紹介した。
「僕はノエル。よろしくね」
「……のえる……さん」
「ふふ、日本では珍しい名前かな?」
「えっ、あ…はい……」
青年の人懐っこさにたじろぎながらも、環は彼に促され、席につく。
「実は、君がまた来てくれたら、これを出そうと思ってたんだ」
そう言って、何かの袋を取り出すと、にこりと笑った。
私のこと、覚えててくれたんだ、と環は胸がじんわりと暖かくなるのを感じた。
ノエルはカウンターに立つとまず、鍋で湯を温め始めた。そしてそこに先ほどの袋の中身――茶葉を入れ、濃く煮出した。そこにミルクを注ぎ、さらに温める。
ティーカップを手に取り、少し湯を注ぎ、すぐに捨てる。
最後に出来上がったお茶を、鍋からカップに、茶こしで茶葉を濾しながら注いだ。
「こちら、当店特製ロイヤルミルクティーでございます」
ノエルは、かしこまった口調で出来上がったものをテーブルに置いた。続いて角砂糖の入った小瓶を添え、優雅にお辞儀をする。
まるで執事のようなかしこまった所作に、環とノエルは顔を見合わせてくすくすと笑った。
ロイヤルミルクティーは、ぽってりとした陶器のカップに注がれていた。
小さく湯気を立てるカップを両手で包み込み、環はそっと口をつける。
甘くて、まろやかで、優しい味だった。
ミルクと紅茶の香りが鼻に抜けて、じんわりと体の力みがほどけていく気がした。
「……あったかい……」
その小さなつぶやきに、ノエルがうれしそうに笑った。
「でしょ。あったかいものを飲むと、心が穏やかになるよね」
「はい…体の内側からあったかくて……ほっとします」
「うんうん、それが大事なんだよ」
ノエルはカウンターの向こうで自分のカップを手にしながら、目を細めた。
そして、環のスクールバッグに目をやる。
「……あ、そのキーホルダー」
バッグに付いた小さなマスコットを見て、ノエルが指さした。
「それ、漫画のキャラクターだよね?」
「え?はい……」
「僕もその漫画、好きなんだ」
「えっ、そうなんですか?」
ノエルの表情がぱっと明るくなる。
「うん。特に6巻、覚えてる? 主人公のライバルが、主人公をかばって敵に捕まるシーン」
「……わかります。私も、そこ……好きです!」
環はノエルと話すうちに、緊張がほぐれていた。環の表情も、生き生きしたものに変わっていく。
「ふふ、やっぱり」
ノエルはうれしそうに笑う。
それからふたりは、漫画のどこが面白かったとか、あそこはこういう解釈だとか、ほかのおすすめの漫画などの話をした。
時間があっという間に過ぎていった。
そろそろ帰る時間だ、と環が椅子から立ち上がったとき、ノエルが環に声をかけた。
「そうだ、別に敬語じゃなくていいよ?」
「え、でも……」
「僕、ずっと外国に住んでたから日本の友達少ないんだよね。君が友達になってくれたらうれしいなあ」
大人の人の友達になんて、自分がなれるだろうか。
ノエルが環の顔を覗き込んでくる。
気圧される形で、環は思わず言う。
「わ、私でよければ……」
「本当? よかった!」
ノエルは嬉しそうに環の手を両手でそっと包み込んだ。
驚いて目を見開く環。
やけに距離感が近く、どぎまぎしたけれど、その温もりがやさしくて、なぜか、嫌ではなかった。
◇
それから環は、何度もこの店を訪ねるようになった。
ノエルは決まって、環におすすめのメニューを出してくれた。
「本日のおすすめの一杯はこちらです」
トレーにカップを乗せてやってきたノエルが、いたずらっぽく笑う。
今日はどんなものが出てくるのだろうと、内心いつもわくわくしていた。
ノエルが差し出したのは、普通のミルクティーに見えた。
「これは、ミルクティー…?」
「これはチャイティーだよ」
「チャイ…?」
環はカップを持ち、口元で香りをかいでみた。
ミルクティーよりもスパイスが香る、異国の香り。
「チャイってね、インドで飲まれている紅茶で、ミルクティーにスパイスを入れて作るんだ。作る人によってスパイスの調合がぜんぜん違うんだよ。これは僕のオリジナルブレンドなんだけどね」
ノエルは環の向かいの席に座って、熱のこもった様子で語り始めた。
「シナモンにカルダモン、クローブもちょっとだけ。あと、生姜も忘れちゃいけない」
「スパイス、たくさん入ってるんだね。」
「うん、おなかもぽかぽかになるし、疲れたときにも効くんだよ。シナモンには血行を促進する作用があって…」
毎回飲み物を出すたびに、ノエルはちょっとした蘊蓄を披露する。蘊蓄を語るノエルは、決まって表情がキラキラと輝いて見えた。環はそれを聞くのが好きだった。
好きなことを仕事にしててすごいな。
少し羨ましかった。
環はチャイをおそるおそる口に含んだ。
最初は少しスパイシーな刺激に驚いたが、すぐに甘みと香りにとろけそうになる。
「……不思議な味だけど……美味しい」
「でしょ? 気に入ってもらえてよかった」
ふたりはいつも他愛のない話をして、笑い合っていた。
──気づけば環の心には、ノエルとの時間が、じんわりと根を下ろしていた。
誰にも見せなかった素の自分を、ぽつぽつと話せる場所。
ノエルの隣に座った時だけが、心の鎧を溶かしてくれるようだった。
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