第3話 夜の訪問者

不意に背後の風が揺れた。



(なんでこんなところに人が?)



瞬間、私は猫のように身を翻し、男と距離を取るため、屋上の端に滑り込むように移動した。

反射的にコートのフードを深く被る。顔を見られたくなかった。

足音がしなかった。ビルの階段を登ってきたのだろうか。

使われなくなった廃ビルには鍵が掛けられているものと思っていたが、何者かに壊されていたのだろうか。

もしかしてこの男が壊したのか?



「……誰?」


声は静かだった。なるべく低く、相手を威圧するように発した。でも、自分でもわかるほど、震えが混じっていた。


そこにいたのは、黒いコートを羽織った長身の男だった。

ただの不良がいたずらのために廃ビルに入ってきたわけではない。なんとなくそんな気がした。

月明かりの中、その顔は影に沈んでいる。けれど、視線だけがやたらと鋭く光っていた。


「ようやく見つけた」

やれやれとため息をつきながら、大げさに肩を竦め、男はそう言った。思ったよりも若い男の声だ。


どこかおどけたような、軽い口調だった。

でも、感情の底が見えない。

それが、不気味だった。


「“見つけた”って。……なに、それ。ストーカー?」


私もあえて軽口を叩く。喉が渇いているのに、口は勝手に動いた。

男は首をすこし傾けると、鼻で笑った。




目元はよく見えないが、男が口の端をわずかに上げたのがわかった。

肉食動物が獲物を見つけたときのような、舌なめずりしているかのような表情だった。


「違うな。俺は――お前を捕まえに来たハンターだよ」


その言葉が、冷えた月明かりに照らされて、胸の奥に刺さる。


「ふうん……名刺、ある?」


男の調子に合わせ、皮肉と冗談を交えて言ったが声が少し上擦っていた。


男は一歩だけ、近づいてきた。

にやりと口の端を釣り上げる。


「名刺はないが、証拠ならある」

そう言って、彼がコートの胸元に手を伸ばす、その瞬間。


私はもう、走り出していた。


考えるより先に、身体が動いていた。

屋上の縁を蹴って、私は空中に躍り出る。


三階建てのビルなんて、高さじゃない。


着地と同時に地面を蹴り、私は闇の中へと飛び込んだ。

背後で、男の呟きが聞こえた気がする。


「……やっぱり、“人間”じゃないな」


 


何なんだ、あの男は。

ただの変態か、それ以外の何かか。ハンターとか言っていたか。熊とかを捕まえるあのハンター?

いずれにしても気味が悪い。

やばいやつには違いない。

何のためにあんなところにいたのだろうか。

また追って来るのだろうか。


冷たい夜風を切りながら、私はただ、走っていた。

誰かの名前も、目的も、すべてがまだ霧の中。

だけど――



胸の奥で、ざわざわと胸騒ぎがした。

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