隣の姫様は趣味を嗜む
錦紫蘇
プロローグ 学園の姫様とその隣人
ピンポーン。
玄関子機を押す。チャイムの音が、夕方の雨の降る住宅街に短く響いた。
『ど、どちら様ですか⋯⋯、あ、
子機の向こうから声が聞こえた。弱々しくかすれた声だった。同時に苗字は覚えられていたんだな、とも思った。
「うん、先生からプリント渡してって頼まれて⋯」
持っていた傘を首と肩で挟み、先生から渡されたプリントをカバンから出して子機のカメラに映るように持つ。
『ちょっと⋯⋯待ってて⋯ください⋯今、開けます⋯』
少し経ってからゆっくりとドアが開き、そこに現れたのは、頬が少し赤く、額にうっすら汗を浮かべた一人の少女だった。
その先から一人の少女が出てきた。
俺が彼女――
高等部への進学を機に実家から出て、一人暮らしを始めた。
そんな俺の家の隣には学校一の美少女が住んでいる。
手入れの行き届いているであろう白銀のストレートヘアーはサラサラしていて光沢が見えるし、その白い肌は荒れることを知らないかのようななめらかさを保っている。
同じ学校、しかも同学年。中等部合わせて既に三年間。彼女の評判を聞き続けている。
実際、彼女は定期考査などで毎回学年一位を取っているし、生徒会が開催している学年レクなんかでもよく活躍している。
今年、同じクラスになったが。関わりなど殆どなかった、それでも彼女の完璧さには
欠点といった欠点は見当たらず、
当然、学校中の男子からモテる。しかも高等部だけでなく、中等部の生徒からも。
そんな美少女が偶然ながらも隣に住んでいる。
一見恋愛小説のような状態。
だからといって、俺に彼女とどうこうなろうという気はなかった。
俺に彼女の魅力が分からないわけではない。こんな美少女、魅力的に映らないほうが難しい。
けれど、関係性はただの隣人。それ以上でもなければそれ以下でもない。会ったときに軽くあいさつをする程度の関係性。
そんなもので彼女とお近づきになれるならば、今まで彼女に撃沈させられてきた男子たちなどいない。
それに、俺にとって燈花は目の保養のようなもの。
関係性は家が近所の同級生程度。甘酸っぱい関係性などになるわけもない。
まぁ、家が近いという理由で先生にプリントを届けてくれと頼まれたものの何かが起こるはずもないだろう。
だから、普通に接した。
「うん、先生からプリント渡してって頼まれて⋯」
ただの一クラスメイトとして接したつもりだ。
『ちょっと⋯⋯待ってて⋯ください⋯今、開けます⋯』
顔を赤くして
「だ、大丈夫?」
「⋯⋯大丈夫⋯ですので⋯心配しなくていいです」
俺はプリントを差し出す。燈花は両手でそれを受け取り、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます。わざわざ⋯届けてくださって」
「いや、気にしなくていいよ。頼まれただけだし」
言いながらも、間近で見る燈花の顔色の悪さが気になって仕方ない。頬の赤みは熱のせいだろう。息もわずかに浅い。
燈花はプリントを胸に抱え、弱々しい笑みを浮かべると、そっと玄関のドアを閉めようとした。
「では……また、学校で⋯」
その瞬間、俺の
──このまま帰って、本当に大丈夫か?
放っておいても、きっと彼女なら自分でなんとかしてしまうだろう。でも、彼女の表情は何か引っかかった。そういう人間を放っておくのに、何となく罪悪感が湧いた。それだけだった。
「……ちょっと待ってて」
思わずそう言っていた。燈花がきょとんと目を瞬かせる。
「⋯え?」
「すぐ戻るから。ドアも閉めてていい」
返事を待たず、俺は踵を返して自分の家──隣の一軒家へ向かった。
台所の戸棚を開け、ストックしてあったゼリー飲料、のど飴の袋などをいくつか取り出す。とりあえず消化にやさそうなものを選んだ。
ビニール袋に詰めながら、ふと自分でもおかしくなる。
何やってんだ俺……ただの一隣人だろ
袋の口を結び、もう一度隣の家へ向かう。傘は面倒くさいので持たなかった。
玄関前に立つと、さっきのやり取りを思い出して少し気恥ずかしさが込み上げた。別に特別なことをするつもりはなかったのに、こうしてわざわざ戻ってきた自分が、なんだか恥ずかしい。
チャイムを押す。
数秒後、またゆっくりとドアが開いた。
さっきよりも警戒心は少し戻ったようだが、それでも彼女はまだ熱で顔が赤いままだ。
「……えっと、これ」
俺はビニール袋を差し出す。袋の中で、ゼリー飲料が小さく揺れた。雨の音がかすかに聞こえた。
「食欲ないときでも、これなら口にできるだろうと思って、⋯⋯のど飴もあるし」
燈花は驚いたように目を瞬かせ、そして視線を袋と俺の顔の間で行き来させる。
「……わざわざ持ってきてくれたんですか?っていうか傘は?持ってましたよね?」
「……まぁ。見て見ぬふりもなんか寝覚めが悪いから⋯傘は面倒くさくて置いてきた」
俺は肩をすくめて、あくまで軽い口調を装った。
燈花は小さく息をつき、ほんのわずかに笑った。
「……ありがとうございます。……すいません、迷惑かけてしまって」
「別に迷惑ってほどじゃないよ」
言いながら、俺はふと彼女の背後を覗く。整然とした玄関と、その奥に見える静かなリビング。
「……もしかして、家に他の人いないの?」
燈花は少し視線を逸らしてから、淡々と答えた。
「……両親は仕事であんまり帰ってこないんです」
「そう⋯」
燈花は袋を受け取ると、小さく頭を下げた。
「ほんと、たすかりました。……⋯ゴホッ⋯ゴホッ⋯」
「大丈夫?ちゃんと食べて、しっかり休んで」
俺はそう言って踵を返す。ドアがゆっくり閉じる音が背中に響いた。
家で
どうせ縁もないし、これっきりだ。
ただの隣人のクラスメイトに関係性が戻るだけ。
もう話すこともないだろう。そう思っていた。このときは⋯まだ⋯⋯。
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