第6話 破壊の音

第6章 崩壊の音(改稿 完成版)


 高級スポーツカーと飲酒運転の件は、善夫の胸の奥で燻り続けていた。

 頭では「今は動くな」と分かっていても、心のどこかでは、その火種がいつ爆ぜてもおかしくないと感じていた。

 表に出せば会社の信用は揺らぐ。

 隠し通せば、自分の信念が削れていく。

 そんな綱渡りのような日々を、足元を見ずに歩き続けていた。



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 ある日、耳に飛び込んできたのは喫茶店での新たな噂だった。

 「昼間から店で酒を飲んで、そのまま運転して帰るらしい」

 その言葉を無視できなかった。


 善夫は念のため、毎日のようにその喫茶店の近くで張り込むことにした。

 不安を抱えたまま、車の到着を待ち続ける。


 そして——噂は現実だった。

 例の高級スポーツカーが現れ、車内に乗り込む姿を目にした瞬間、酒気を帯びているのは明らかだった。

 ハンドルを握り、エンジンが唸る音が響く。


 善夫はその場で立ち尽くした。

 ただただ「捕まらないでくれ」と祈るしかなかった。

 会社の信用を守りたい一心で、警察に知らせることもできず、

 祈りながら、その車のテールランプが夜の闇に消えていくのを見送るしかなかった。



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 息子は肩書きだけは取締役だった。

 何か一つでも不祥事を起こせば、個人の責任では済まない。

 会社そのものの信用が地に落ちる。


 それなのに、彼は会社に顔を出さず、仕事もせず、ただ給料だけは支払われ続けていた。

 社員が汗を流して積み上げた利益から生まれる給与が、荒れた生活を支える燃料に変わっていく。

 その矛盾を飲み込むたびに、善夫の胸の奥では怒りと虚しさが交錯していった。



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 そして予感は現実になる。


 ある取引先の担当者が、世間話の延長のように軽い調子で言った。

 「この前、あの高級スポーツカー見かけたんですけどね……運転席、かなり酔ってる感じでしたよ」


 心臓がドンと一度強く打ち、その後スッと冷えるように血の気が引く。

 笑顔を作ろうとしたが、口角は引きつっていた。

 この噂が広まれば、銀行が耳にするのも時間の問題だ。

 一度でも「飲酒運転」と「役員」という言葉が並んで世間に出れば、会社の信用は一瞬で崩れる。

 積み上げてきたものが、紙細工のように崩れ落ちる光景が頭をよぎった。



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 善夫は即座に動いた。

 初代社長の息子に直接会い、「運転は控えろ」「酒を減らせ」と何度も忠告した。

 話すたびに言葉を選び、怒らせないようにと腹の底で慎重に舵を切った。

 初代自身も息子を呼び出し、「会社のためにやめろ」と諭した。

 だが、その言葉は固く閉ざされた耳には届かなかった。


 「俺は初代の息子だぞ。お前らに口を出す権利はない」


 それは、ただの反発ではなかった。

 彼にとって「息子」という肩書きは、盾であり、武器でもあった。

 忠告は重ねるほど、生活はさらに荒れていく。


 昼間から酒をあおり、夜には繁華街での粗暴な振る舞いが目立つようになった。

 タトゥーを見せびらかしながら歩き、威圧的な態度で周囲を押し黙らせる。

 かつては一緒に笑い合っていた友人も離れ、代わりに酒場仲間ばかりが周囲を囲むようになった。

 頬はこけ、目の下の影は濃くなり、顔色は灰色に近づいていった。

 それでも、彼は自分の変化に気づいていないようだった。



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 数か月後のある夕方、一本の電話が善夫のもとに入る。

 受話器越しの声は低く、事務的だった。

 「……息子さんが搬送されました。肝臓が……もう手の施しようがありません」


 その瞬間、体の芯が冷えきったような感覚に襲われた。

 病院に駆けつけると、すでに意識はなかった。

 ベッドの上、管に繋がれた痩せ細った体。

 医師の説明は淡々としていて、その冷静さがかえって現実を突きつけた。

 長年の大量飲酒による肝硬変——体は限界を超えていた。


 翌朝、息を引き取る。

 悲しみよりも、深い虚無感が胸に広がった。

 会社の象徴のように振る舞い、周囲を支配してきた男が、酒という小さな毒に蝕まれ、すべてを失っていく——その結末を、あまりにも近い距離で見せつけられた。



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 葬儀は静かに行われた。

 しかし参列者の間では、「飲酒運転の噂」や「会社名義の高級スポーツカー」の話が、小声で何度も交わされていた。

 そのささやきは、やがて社外へと広がり、薄く長い影となって会社に落ちる。


 そして、息子を失った初代は、日に日に元気を失っていった。

 机に向かう時間は短くなり、出社の回数も減る。

 言葉数は減り、背中はかつてないほど小さく見えた。


 会社の将来を握る手が、ゆっくりと力を失っていく——その変化を、善夫は黙って見つめるしかなかった。

 この出来事が、次の嵐の引き金になることを、まだ誰も口にはしなかった。

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