第14話:瞬きの余白

金曜日 午前10時。

社員用の会議室にEX4.0コンペのメンバーが集まる。

規模に反比例して、空気は軽い。小川の言葉の密度の薄さが、そのまま室温に映っていた。

それはPLの小川から放たれる言葉の軽さを、そのまま反射しているようだった。

「おつかれさまです。

 早速ですが、今回のEX4.0──テーマは先日お伝えしたとおり“ログ同期の極限化”です。

 すなわち、ゼロ改革。遅延ゼロ、欠損ゼロ。

 “ゼロ”に近づけることが、ユーザー体験の向上に直結します。そこが差別化になる」

小川は視線を右から左へ、会議室全体をなぞるように動かす。さらりと言い切る声の奥に、意外な熱が滲んでいた。

「はい。えっと……現状のGAIHのログ同期、調査結果の観点からどうでしょうか?」

関口はエンジニアチームへ目配せをする。その響きは、危機回避的な発言権の放棄にも聞こえた。

エンジニアの中村が俯いたまま、目線だけを持ち上げる。

「最低限、RFPには目を通してほしいですね……。欠損率は12%。そのうちMCARが8%を占めます。サーバ間の同期ズレは最大0.13秒」

「0.13秒は、現場感覚だと死活問題です……」

吉田が乾いた声で付け加える。

0.13秒──目を瞬かせるよりも短い。

だが、ユーザーにとっては、その瞬きの間に、体温、鼓動、視線の動き、会話の抑揚といった“生きたログ”が丸ごと抜け落ちる。

同期がずれた瞬間、その人の行動予測モデルは正確さを失い、体験は鈍く、時に危険ですらある。

たとえばAR医療サポートでは、医師が見ている患部と、AIが認識している患部が別の位置に表示される。

そのズレは「誤診」という形で、すぐに現実を壊す。

小川は、湯気の消えたコーヒーをすすっているような顔で、中村の言葉を半分だけ飲み込んだ。

「……補足しますと、今回のEX4.0は...国家規模のプロジェクトです」

関口は、ディスプレイ上のスライドを軽く叩いた。

「これまで政府直下のDAIが主導してきましたが、今回からはGAIH──国際的機構も関与します。日本基準と世界標準が、初めて正面から交差するフェーズです」

エアコンの冷気が、さっきまでよりも肌に硬く当たるような気がした。

たった0.13秒の遅延──だが、それは一国の意思決定を狂わせ、国際交渉の均衡を崩す時間でもある。

国内で許容される遅延も、国際標準では「存在してはならない」ものだ。

今回のEX4.0は、単なるシステム改善ではない。

EX4.0は、その“瞬き”の中に世界を収める挑戦だった。

小川の視線はディスプレイの上をゆっくりと滑っていった。小川は、遠くの海を眺めているようで、波も船も会議室にはなかった。その顔は、まるで喫茶店で頼んだトーストが、自分の席だけ一回り小さかった時のようだった。

数秒だけ、誰も言葉を選べず、薄い呼吸の音だけが会議室を満たした。

「……って、そんな国家プロジェクトに、なんでうちみたいな中堅が呼ばれてんすかね」

小鳥遊は、言葉を置くようにしてそう言った。

椅子にもたれた背中が、ゆっくりと沈み込む。わずかに揺れる自分の椅子の感触を確かめている。

場の張り詰めた空気に、ひと筋だけ別の温度が混ざった。

誰も答えない。だが、その“場違い感”こそが、この会議の本質を物語っていた。

ただ、彼はその揺らぎを見逃さなかった。

軽口は、ただの冗談ではない。

緊張を弛め、言葉の鎧を外させる──それは、小鳥遊が無意識に行う中立の儀式だった。

立場も、利害も、思想も。全員が一度ゼロ地点に立ち戻る。

その場にいる者すべてを、均等に“会議の人”へと戻す。

まるで、どちらの陣営にも加担しない旗手のように。

ふと、小川は端末の角を見つめて小さく頷いた。たぶん彼の脳内では、この会議よりも昨夜見た配信者のネタが再生されていた。


「……たぶん、両方の言葉が分かるやつが必要なんですよ」

彼は小鳥遊の言葉を拾い放った。その言葉は周囲の熱を再び叩いた。

「現場の温度もわかって、国際規格の資料もちゃんと読める人。どっちか片方だけだと、必ずどこかで食い違うじゃないですか」

「海外の取引だと、リアルタイム通訳だけじゃ足りない時ってあるでしょう。数字や仕様をそのまま訳しても、文化や前提のズレまでは埋められない。

 結局、両方の土台を知ってる“現場出身の翻訳士”みたいな人がいないと、橋は掛からないんです。だから...」

そして、彼は一呼吸置いた。会議室の視線は彼に自然と集まっていた。

「──余白を設計します。あえて」

会議室の輪郭がハッキリとした。それは、前に進む予感を募らせる発言だった。数人の眉も、同時にわずかに動く。

「全ては繋がない。最後の数歩は、渡る人が決める。その裁量を制度化するのが、僕らの仕事です」

「現場と世界基準のあいだに、あえて“人の判断”が入り込める幅を残すんです」

スクリーンには、欠損データ“MCAR:8%”の数字が浮かんでいる。

「この揺らぎこそ、予測にとってはノイズじゃなく燃料になります。誰が、どんな背景で、どう埋めるか──それを観測すれば、次の予測モデルはもっと正確になる」

中村は眉をひそめた。

「国際基準は0.01秒です。航空、交通、医療……安全基準に関わる部分では絶対に守らなければならない数字です。

7年前...。地方鉄道で0.12秒の遅延がブレーキ反応に出て、事故が発生しました。死者も数十名出た事故です。あれが“ズレ”です。

0.13秒を認めることは、殺人予告と同じだ」

彼は中村から視線を逸らさなかった。中村の話が終わると、静かにうなずいた。

「はい。その通りです。でも全部をそこに合わせる必要はないはずです。

 インフラや医療、ライフラインは0.01秒固定。それ以外──例えば日常の運用や体験系のサービスは、0.05秒や0.1秒でも成り立つ。

 むしろそのズレを許容して、人間の判断が結果に反映されるようにする。そうすれば、現場の創意工夫や文化的な違いを残せます」

小川が腕を組んだまま、わずかに視線を落とす。

その発想は、数値上は緩い。だが感覚としては、確かに無理がない。

現場と国際規格のあいだに残された“数十ミリ秒”──その余白が、現場を守る盾になるかもしれない。

会議室にわずかな沈黙が流れた。

小鳥遊はそれを気にもとめずに、彼の言葉に装飾を施した。

「たしかに。どっちかというと俺たちは現場寄りっすよね。でも“国際基準”は……中村さんなら、話、丸く収められそうじゃないですか?」

冗談半分に見せながらも、その言葉は静かに背中を押していた。

中村はわざとらしい小鳥遊の視線を確認した。会議室全体の熱量は中村に注がれる。

そして、静かにうなずく。

「ええ。……技術的にも制度的にも、それなら筋は通ります。ただ、"ズレの許容"を私たちで定義できますか?

 ...それは社会を作る行為ですよ?」

0.5秒の間。会議室に沈黙が走る。だだ、彼にとっては沈黙ではない。思考の時間だった。

「作ります。 逃げずに定義します。境界は守る、余白は学習する。役割を分けるだけです」

それは虚勢ではない。彼がこれまで積み上げてきたログに残らない実績たち。それらが彼の姿勢と発言に重みを加えていた。

しかし、まだその重みは、彼を間近で見た者にしかわからない。小川が、そこで口を開いた。

「──いや、それは危ない」

腕を組んだまま顔を上げると、その目は中村ではなく、彼を射抜いていた。

「0.05秒や0.1秒で許される場面はあるかもしれない。でも、その“例外”は必ず拡大解釈される。

 誰かが境界線を曖昧にした瞬間に、守るべき0.01秒の現場にも、同じ緩さが忍び込むんだ」

テーブルの周囲に、無言の「たしかに」が広がる。わずかに頷く者、目を伏せる者。数字の正しさは、その場に静かな重みを落とした。

小川の腹の底から出た言葉。彼はそれらを受け止めたうえで答えた。

「はい。…だからこそ、境界は残します」

彼の曲げない姿勢に、小川の心拍数はさらに上がる。


「医療やインフラはゼロ改革のまま守る。でも、それ以外の揺らぎは観測対象にする。

 欠損──全体の欠損データ(MCAR)8%を、未来の選択肢として残すんです。

 背景情報と感情ログを組み合わせて推定し、次の予測に反映させる。

 0.01秒は壊さずに、可能性だけを更新していく」

会議室の空気に0.13秒の間が生まれた。それは、数字では測れない余白。それがそこにあった。


小川が息を吸い、低く響かせた。

「──欠損は可能性じゃない。

 それは、空白のまま残った“穴”だ。人間が勝手に意味を与えているだけで、本質的にはノイズだ」

小川の言葉は、まるで過去の体験を語っているような口ぶりだった。会議室の空気がまた硬くなる。

小川は言葉を続けた。

「"欠損"が"未来"? 馬鹿馬鹿しい。

 火星探査機の軌道が0.01度ずれただけで、何百万キロも外れるんだ。

ゆえに、現場でそのズレを許せば、未来での衝突は避けられない。

 欠損は可能性じゃない」

小川の言葉は全くの正論である。ただ彼は、0.01秒の反応で言葉を返した。

「空白は穴じゃない、弁です。 圧を抜く調整弁。医療とインフラは閉じたまま。体験側だけ計画的に開閉します」

小川の視線が動く前に、言葉を重ねる。

「過去はAIの記録も人間の記録も足りなかった。でも今は、人間の判断や感情まで含んだログが、ほぼリアルタイムで揃っている。

 人間の直感とAIの予測が、同じ地図を広げて議論できる今こそ、余白を使うべきです」

彼は、小川の瞳の奥の揺らぎを捉えていた。 ゆっくりと、彼は視線を会議室の左から時計回りに見回した。

「境界を守るだけじゃなく、その先を観測する。

 それは危険じゃなくて、次の社会を“作る”行為かもしれません。

 もし未来に賭けるなら──人間とAIの協奏が最善だと、私は考えます」

室内に、再び静寂が落ちた。今度は否定の空気ではない。

それは、まだ形にならない可能性の輪郭を測る、慎重な沈黙だった。

「アキ"くん"。

 あなたの意見はわかった。おかげで、ある程度の方向性も見えた」

周囲は小川が会議のまとめに入ったことを察する。彼の判断がNoēsis社、柏木とのMTGの結果を左右する。

「月曜日のMTGは、今回の内容をもとに、"ゼロ改革"の方向でヒアリングを進める」

周囲にさらに強い重力がかかる。それは小川の判断が、変わらなかったことへの失望が含まれていたからだ。

「アキ"くん"。君の考えは。

 例えば、"免疫“が特定の病原体なら防御しないと宣言しているものだ。

 そうすれば、体は一瞬で侵される。

 境界線は、0か1かでしか守れないんだよ」

会議室を出ると、空気はもう昼休み中のざわめいた空気に満ちていた。この時代に、予定の時間を過ぎて議論が行われるのは、ほとんど事件だ。

彼は歩き出す。

「──月曜の会議では、今日みたいな発言はやめろ」

背後から声が届く。振り返ると、小川が腕を組んで立っていた。

「お前のやり方は、現場を壊す。

 あの“余白”は、危機管理の穴だ。

 一度穴を認めた制度は、必ず崩れる」

淡々とした口調だが、言葉の端に硬さが混じる。

彼は返さない。ただ、小川の目の奥に、消えない警戒心を見た。

「理屈が通らないものを俺は絶対に認めない」

小川は短く言い残し、廊下の奥へと去っていく。

彼はその背中を目で追い、何も返さなかった。

残ったのは、袖の端を撫でる空調の風と、足音の余韻だけ。

端末を開く。件名だけ打つ。

《提案:可変正アーキ v0.1/併走実証の打診》

—本文—

・二層SLA(ゼロ層0.01s固定/余白層0.05–0.10s)

・境界契約と200msロールバック

・観測学習の重み更新手順

・倫理監査の不可逆ログ仕様

送信。ピッ。青い点が一度だけ点滅し、静音が戻る。

自分の胸の内に、静かな波紋だけが広がっていた。両方で進める。それが社会ではどれだけ無謀で否定される考えかということを。彼は改めて額のわずかな汗の滲みから理解した。

(否定は、前進の起点だ。弁は開いた。あとは流すだけだ。)

その波紋が、どこまで届くのかはまだ分からない。

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