写本破りルアト

べやん。

【教会編】

1420年 13歳

第1話『名もなき者と超越者』



 あの日、俺は出会った。

 なんて、ずいぶん気取った言い方だが――まぁ、事実だ。


 1420年 神聖ローマ帝国南部、森に眠る古の修道院――


 物心ついたときにはもう教会の中にいた。


 俺は戦争で焼けた村の、唯一の生き残りだったらしい。

 名前も家族も、何も覚えてない。

 ただのひとりのガキ。

 泣きもせず、焼け跡で本を握ってたんだとさ。

 ……で、そのガキを「記録すべき」だったんだろうな。教会にとって。

 それで拾われたってわけだ。


 そんな俺には――名前がなかった。

 洗礼の証人もいなかったし、名付け親もいない。

 だから“与えられなかった”ってのが、表向きの理由。


 でもまぁ、本当はちがう。

 俺の目つきと、“一度聞いた言葉をそのまま真似る”癖が、気味悪がられたんだ。


 司祭たちは口を揃えて言った。

「神の御心が定まるまで、名を与えるには及ばぬ」とな。


 ……ふん。

 神の意志だぁ? くだらねぇ。

 名なんて、他のやつらには簡単に与えてるくせに。

 俺には、ただ“その気がなかった”ってことだろ。


 ――って言っても、名前なんて、別に無くていい。


 ……ここじゃ俺は本を読むことも、文字を覚えることも、“禁止”されている。

 でもな、そう言われたからって、「はいそうですか」なんて、従えるわけねぇだろ。アホくさ。


 だから俺は、毎日礼拝堂から漏れ聞こえる祈りの声を、そっくりそのまま暗記してやった。

 そして誰にもバレねぇように――破棄された本の切れ端を集め、聖書を一冊盗み、擦り切れた背表紙を抱えて、廃墟に潜り込み、独学に励んだ。


 そうして自分で、自分のために、必死に読み書きを覚えていった。


 誰に許されたわけでもない。

 誰に教えられたわけでもない。

 でも、“そうしないと俺でいられなかった”。

 

 まぁ……俺みたいな名も持たない人間が、意味を知りたがるなんて、我ながら滑稽だと思う。


 そういえば今日は、俺がこの教会に拾われた日だ。

 ……どっかの金持ちは、産まれた日を祝うらしいが。

 まぁ、とにかく俺にとっての“誕生日”ってやつだな。


 年齢なんて正確には分からない。だいたい、十三になる頃だろうと言われた。




 そんな日も、俺はいつも通りだった。




 教会の裏手にある廃墟、ここはガラクタ置き場みてぇなもんだ。

 俺はその一角に、胡座をかいて座り込んでいた。


 屋根はぶっ壊れて、冷たい夜風が吹き込む。

 すすけた石壁は、火事の跡か、薄汚れたまま。

 そのひび割れた壁の向こうから、星がのぞいている。

 月明かりが崩れた瓦礫や雑草の影を、床に映していた。


 目の前に広がる床には、拾い集めた紙の切れ端、かすれたインク、そして盗んだ聖書。

 俺は粗末な火打ち石でそっと火を灯す。

 ロウソクの火がゆらめくと、羊皮紙に書かれた文字が、ぼんやりと浮かび上がった。


 手元の言葉に指をなぞらせる。

 まるで誰にも見られたくない秘密を、そっと掘り起こすみてぇに。


 この瞬間だけは、誰のものでもない俺だけの時間だった。

 禁止された文字に触れるとき、胸のどこかが熱くなる。


 そのときだった。


 ふわりと、風が揺れて――

 誰かの足音がした。


「やぁ」


 不意にかかった声に、背筋が冷える。


 顔を上げた先に立っていたのは、白っぽい銀髪の、年齢も性別もよく分からねぇやつ。20代…くらいか?一言しか聞いてないが、声的に多分、男…か?

 白い衣に砂色の肩掛けを羽織っている。


 教会の中で見かける顔じゃない。

 しかも、こっちをまっすぐ見て、にこにこしてやがる。


 ……気味悪ぃ。

 

「……お前、誰。立ち入り禁止だろ、ここ。関係者以外入れねぇはずだ」 


 俺は本を隠す事も忘れて、睨みつけた。

 けど、“あいつ”は、まるで風でも感じたみたいに、ふわっと笑った。


銀白髪の男「あれ?ここ、君の部屋だった? やだなぁ〜、ごめんごめん、楽しそうだったから、つい、入っちゃった」


「……いや、ふざけてんのか。俺の部屋なわけねぇだろ。……どっから入ってきた。鍵、かけたはずだぞ」


銀白髪の男「鍵〜? うーん、開いてたと思うけどなぁ……たぶん、君がかけ忘れちゃったのかも♪」

 

「……んなはず――」 


 咄嗟に記憶を探ると……確かに、かけ忘れた気がしてきた。


 クソ……。


「……とにかく、ここはお前みたいな暇人が入っていい場所じゃねぇんだよ。さっさと消えろ」


 俺がにらみを利かせると、そいつは更に近づき、にっこり笑って、俺の前にひらりとしゃがみ込んだ。


銀白髪の男「……ねぇ、君、名前は?」


「ねぇよ」

 

 即答だった。


銀白髪の男「そっかぁ……あ、本、好きなんだねぇ」


 そいつは床に散らばる本の切れ端と、聖書に視線を落とし言う。


「…………」


銀白髪の男「しかもさ、“本が好きな目”、してるもん。……こう、読んで、飲み込んで、苦しそうになって、でも手放さない……みたいな?」


「……勝手に妄想すんな」


銀白髪の男「ふふ、じゃあ……」


 そいつは切れ端一枚を指先でそっと拾い上げる。


銀白髪の男「この言葉、読める? “veritas”。ラテン語で“真実”って意味なんだけど……なんか響きだけでも強そうだよねぇ」


「……それぐらい知ってる」


銀白髪の男「……じゃあさ、“真実”って、どこにあると思う?」


 その問いに、俺はしばらく黙った。


 そして―― そいつの手を払うようにして、切れ端を取り返した。


「そんなもんねぇよ。名前も、意味も……どっかの誰かが、勝手に決めたもんだろ」


 何バカ正直に答えてんだ俺は。

 

 ……でも、真実、か。


「………お前はどうなんだよ。……真実、どこにあると思うんだ」


銀白髪の男「ん〜〜、ぼくはねぇ、“探してる”あいだって、まだ“外”にある気がしちゃうんだよねぇ」


 そいつは笑った。その灰色の瞳の奥には、底の見えない深さが滲んでるようだった。


銀白髪の男「“誰かが決めた正しさ”を借りてるうちは、自分の言葉じゃないのかもなぁって……そんなふうに思ったりもして、ね?」


銀白髪の男「それにさ、君が、“ない”って言ったその場所に、ほんとはあるのかもしれないよ?」


「は? なにそれ。詩人ぶってんのか、お前」


 そう返しながら、俺は苛立ちを押し込むようにゆっくりと立ち上がる。

 白いやつも、それに釣られるようにすっと立ち上がっていた。


 向かい合うと、こいつの方がすこし背が高くて、そんな些細な事さえ更にイラつかせる。


「第一、俺がないって言ったんだ。お前が“あるかも”とか言って勝手に踏み込んでいい領域じゃねぇだろ」


銀白髪の男「あ〜……入っちゃった。ふふっ、勝手に踏み込むの、よくないよねぇ?」


銀白髪の男「でもね、“絶対にない”って、言い切れる人って少ないんだよ? たいていは……“見ない”か、“見えなくなってる”だけ、だったりするから」


「……お前は何が言いたい。俺が言い切れてないとでも言いたいのか?」

 

「俺は、“ない”って言い切って生きてんだ」


 それだけが、俺の手応えだったってのに。


 ……何なんだよ、こいつは。


 俺がそうやって生きてきた日々が、まるで子供の強がりみたいに見えるのか。

 心の中に引いた線を、あっけなく越えられた気がして、無性に腹が立った。


 俺は苛立ちに任せて、剃髪もされてない伸び切った癖のある黒髪をガシガシとかきむしる。


「……チッ、もう帰れ」

 

 言い終わるや否や、俺はそいつの肩をがしっと掴んで、ぐるりと向きを変えさせ、言葉を足す余地も与えず、そのまま背中を扉へと追いやるように進む。

 

 これ以上、俺に踏み込んでくるな。


銀白髪の男「……ねぇ、怖いの?」


 そいつは背中を押されるまま、顔だけをこちらに向けた。


銀白髪の男「ぼく、押しつけたりしないよ? ただね、“ない”って言い切るたびに、きみの中に、ほんのちょっと……まだ何かが残ってるように、見えちゃうんだよねぇ」


 そう囁くように言って、そいつは少しだけ微笑んだ。

 扉に追いやられながらも、まるで逃げる気配はない。


銀白髪の男「――“言い切る”ってさ、本当は、けっこう苦しいことなんじゃないかなぁって」


 やめろ。心の中を覗いたような顔、すんな。

 何も知らねぇくせに、知ったふうに言うなよ。


 扉の前まで一気に詰め寄り、勢いのまま乱暴に開け放った。

 そいつの背を押して、外へと放り出す。


「……もう、二度と来んな」


 振り返ったそいつはまだふわりと笑っている


銀白髪の男「……ふふ、“来るな”って来てほしい人の言葉みたいだねぇ」


銀白髪の男「……君の“ない”って顔、すごく綺麗だったよ? ぼく、そういう、忘れられない夢みたいなの、つい記録したくなっちゃうんだよね」


 ――は?


 一拍遅れて、背筋をぞわりと悪寒が這う。


 ……気持ち悪ぃ。


 何が“綺麗だった”だ。何が“つい記録したくなっちゃう”だ。


 ふざけんな。俺の“ない”を、勝手に見て、勝手に触ったくせに。


「うるせぇ、もう喋んな。……とっとと帰れ」


銀白髪の男「……ふふ、怒られちゃった」

 

銀白髪の男「じゃあ最後に名乗っとくね、ぼく、カディレオスって言うんだぁ」

 

カディ「でも……うんうん、怒った顔も綺麗だね……また、見たくて、来ちゃうかも」


 そして――

 そいつは、名前なんか持たされたことのない俺に、当たり前の顔をして、その名を呼んだ。

 

カディ「――ばいばい、ルアト」

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