第28話 二人の寺井

 鷹助の知る寺井という男は二人いる。

 常勝軍団、小針工大付属高校監督、寺井 洋一よういち

 もう一人が、鷹助と友希のよく知る寺井……寺井 洋次ようじである。

 この二人、実は兄弟であった。兄が洋一、弟が洋次である。

 兄、洋一は当時まだ名の知られていなかった小針工大付属のOBで、洋次は当時強豪だった草薙高校OB。二人の寺井は今、当時からは考えられない真逆の人生を歩んでいる。


 洋次は中学硬式野球クラブである久地松クラブの出身で、キャッチャーをしていた。兄も同じクラブだったが、鳴かず飛ばずでどこの高校からも声がかからず小針に進学した。それとは対照的に、洋次は数校から声がかかっていた。彼はその中から、草薙高校を選び進学した。

 そこで、同級生として入学してきたのが鷹助の父、鷹志だった。

 鷹志は草薙ボーイズの出身で、コーチからアンダースローを教わりそれを武器に入学してきた。二人はバッテリーを組んだりしながら三年を過ごし、甲子園には届かなかったが一緒に汗を流した盟友となった。

 洋次は高校で野球の道から外れ、土木関係の仕事をして勉強し、小さいながらも自分の会社を持つまでになった。地元久地松に事務所を構える寺井工務店の社長となり、忙しい毎日を送っていた。

 しかし今から四年ほど前、突然の訃報が飛び込んできた。鷹志が心臓の病で亡くなったという話である。

 鷹志は心筋梗塞で突然倒れ、すぐに帰らぬ人となったと後から知った。かつての盟友の死に深い悲しみを覚えた。妻を失い、まだ小学生の子供を残して他界した彼の気持ちを思うと、やるせない気持ちになった。

 それでも洋次は、小さいながらも自分の建設会社を持っている社長だ。悲しみに暮れている場合ではない、なんとか飲み込んで日々の仕事に明け暮れていたが、ある時運命は悪戯を彼に仕掛けてきた。

 

「坊主、どうした」

 今から四年ほど前のある日のこと。役所から発注のあった河川敷の工事で、今川いまがわ橋の下の河川敷を工事することになった洋次は現場を仕切るフェンスを設置していた。すると、河川敷に小学生か中学生になりたてくらいの子供がグローブを持って降りてきて、フェンスの設置場所の前に立ってこちらを見ていた。

 その子供は帽子を目深にかぶって、古ぼけたグローブを持っていた。どこかで見覚えのあるグローブだと彼は思い、その子供に声をかける。

 声をかけられた子供は、顔を上げた。帽子のつばの下に見えた顔に、どこか見覚えがあった。

「おまえ……鷹志の息子か!」

 先に逝ってしまった鷹志の妻によく似た顔。忙しさからあまり対面する機会はなかったが、葬式の時に見かけた。鷹志の一人息子、鷹助だ。

 彼は暗く沈んだ顔をしていた。古ぼけたグローブとボロボロの硬式ボールを持って何か言いたげに突っ立っている。こんなところでどうしたのか、そう問いかけると彼は短くこう言った。

「ここで練習してました」

 どうやら彼は鷹志と同じような性格らしい。ぶっきらぼうにそんなことを言った。

 詳しく理解ができなかったので作業を少しの間中断して、彼から詳しく話を聞くことにした。

 そこで聞いたのが、彼が入ったクラブでのトラブルだった。彼は将来有望な選手を殴ってしまい、退部させられたのだと言う。それを聞いた洋次は、吸っていたタバコを地面に落として靴底で乱雑に消した。

「そうか。腹の立つやつだな。アンダースローや鷹志のグローブまで馬鹿にして。人間としては三流だな」

「あいつに負けたくないです。だから練習したいです。あいつに勝って、アンダースローで甲子園に行きたい」

 彼ははっきりとそう口にした。殴ってしまった相手に野球で勝ちたい、父が行けなかった甲子園に行きたい、と。他のクラブは受け入れてくれなかったから、自分一人でも練習して甲子園に行くんだと彼は語った。

 それを聞いた時、洋次は彼を放っておけなくなった。

 鷹志は高校卒業後、会うたびに行けなかった甲子園の話をしていた。無念をずっと抱えていたのだろう。いつか子供ができて野球をやってくれるなら、甲子園に出てほしいと言っていた。そして今、偶然ここで出会ったその息子がそれを叶えようとしている。遺志を継いでくれているのだ。

 できることは少ないだろうが、何かしてやるべき。彼はしばらく考えたあと、鷹助に言った。

「なら、おじさんがどうにかしてやろう」

「え、ほんとですか」

「ああ。ただし、練習に付き合ってやるのは難しいから、ここだけはどうにかしてやる。俺に任せろ」

 洋次がにっと笑うと、鷹助もやっと笑顔になった。かつての盟友の息子を甲子園に立たせるために、彼は自分のできることをやると決めた。


 洋次は工事現場に特別に入ってもいいと鷹助に伝えた。橋の下は資材置き場にするつもりだったので、資材の置き場所さえどうにかなれば特に工事に支障はない。彼には工事をしている時は近づかないようにと注意して、とりあえず練習場所を与えた。

 そして洋次は仕事の合間に重機をせっせと動かした。その結果が、手作りのマウンドだった。

「こ……これは……」

 完成後にやってきた鷹助が驚いていた。橋脚から少し離れたあたりに、土がわずかに盛られたところができている。鷹助には、それがマウンドだとすぐわかった。

「おじさん、これ!」

「おお。作ったぜ。俺特製のマウンドだ。役所にも何も言わずに勝手に作ってやった。俺もなかなか悪だな、ははは」

 ただの土が盛られた場所だが、球場と同じようになだらかな傾斜がつけられている。そして反対側の橋脚には、分厚いスポンジが立て掛けられている。

「あのスポンジをキャッチャーだと思って投げろ。ちょうどキャッチャーくらいまでの距離で調整してある。もう壁に直接当てるなよ、ボールも橋ももたないからな」

「あ……ありがとうございます!」

 鷹助は深く深くお辞儀をし、鷹助はその日から洋次の用意した練習場を使い始めた。


「ありがとうな、洋次。孫のために。役所に叱られるかもしれんのに」

「いいってことよ」

 鷹助が洋次お手製のマウンドで練習を始めて、三ヶ月が経った。

 洋次は時折、仕事終わりに堤防の上から鷹助の練習の様子を見ていた。見に行くのは仕事がうまく終われた時だけだったが、鷹助はいつ行っても練習している。そして、時折鳶男もこうして現れる。昔から洋次と顔馴染みの鳶男は、彼にあらためて礼を言った。

「あいつ、まさか毎日やってるのか?」

「ほうだわ。毎日だわ、飽きもせんとな。ここで練習したら帰って鷹志のビデオをずっと見とる」

 鷹助は本当に毎日毎日繰り返しここに来て、練習をしている。ひたすら彼に用意したスポンジに一人投げ込み続けている。だが……今日は少しだけ変わったことがある。

 鷹助のいる脇に、彼と同い年くらいの女の子がいた。

「じいさん、あの女の子どこの子だ?」

「ん? ああ、鴨川さんとこの妹だわ。鷹助と同級生でな」

「鴨川……ああ、兄貴がソフトボールの強豪に行った家の子か。なんか聞いたことあるな」

「鷹助とは昔っからの付き合いでなぁ。最近毎日見にきとる。危ないからかえりんって言っとるんだけんど、あの子も全然言うこときかんでいかん」

「はは。類は友を呼ぶか」

 洋次は鷹助に視線を向ける。鷹助の投げ方、動作、仕草、そして努力の虫というところまで同じで、懐かしく思えてくる。

 しばらく彼の様子を観察する。おそらく彼の師匠は、ビデオの中の鷹志だ。鷹助のフォームは、足の上げ方、腕の振り上げ方、リリースした後の姿勢まで鷹志と瓜二つ。まるで、鷹志が生まれ変わったのではと錯覚してしまうほどだ。ビデオをじっくり見て父を真似ているのだろうと良く伝わってくる。

 そして変化もある。少しずつ、少しずつ、鷹助のフォームや投げる球、コントロールが良くなってきている。洋次にはそう見えていた。


 洋次が練習場を作ってから二年ほどが経った。初めてここで会った時は中学一年、背も低かったが今では165センチほどまで背が伸びた。

 ただ、変わったのはそれだけではない。毎日の投げ込みの成果は、球速に表れていた。

 目を見張るような、低く威力のある速球を鷹助は投げている。かつて見てきた、鷹志のボールよりはるかに速い。威力は十分だ。そしてどうやら変化球も練習して投げられるようになっており、コントロールも申し分ないほどになったようだった。

 洋次は、ここまで一人で到達した彼の意気込みを無碍にしてはいけないと思い始めていた。

 今草薙高校は弱小高校と呼ばれるほど力を失った。甲子園の扉を開くには、有名高校に進学するのが近道だ。その近道を行く、最も身近な人間に頼ることにした。

 それが、兄の洋一である。

 彼は現在、県下……いや、全国的にも有名な小針工大付属の監督であった。

 洋一は選手として最後まで芽は出なかったが、大学まで野球をした後、野球にどうしても関わりたいと思っていた彼は小針のコーチになり、やがて監督となった。彼は生粋の野球小僧だ。野球のためなら努力を惜しまない努力の虫。チームを勝たせる努力を積み重ね、今では常勝軍団を育て上げた名監督として名を馳せている。洋次の自慢の兄である。

 洋次に頼み込み、一度直接見てくれと頼んだ。洋一は忙しいと言ってあまり乗り気ではなかったが、渋々ながら洋次とともに夜の堤防にやってきた。

「あれだ。今日もいる。あれが俺の言ってた鷹助ってやつだ」

「どれ。……おお!」

 洋一は正直期待していなかった。野球をまともにやっていないのにそんなすごいボールが投げられるわけがないと、信用していなかった。しかし、堤防に立って今日も投げ込む鷹助のボールを見た時、あっさり手のひらを返していた。

「あの子何者だ!」

「高校の連れの息子だ。色々あって今はここで練習してる。すごいだろ、アンダースローであんな球投げるんだぞ」

「もっと早く教えろよ! こうしちゃいられん!」

 洋一は少年のようにはしゃいで小躍りしながら堤防を下って行った。根っからの野球好きでありながら名門監督という立場では無理もないが、いささか子供のようだ。彼の素を知る洋次は時々本当に兄貴かと思ってしまう。先に行った洋一を追い、河川敷へと降りた。彼は先走って行ってしまったため、鷹助と友希からすでに不審者と思われている。すぐ弁明しなければならない。

「鷹助、友希ちゃん。わりぃな、そいつは不審者じゃない。俺の兄貴だ」

「え……寺井のおじさん……え、二人とも寺井のおじさん?」

 友希が困り顔でそう言った。その通りなのが余計に混乱を招く。洋一は話を聞いてもらえると思ったのか、ようやく自己紹介をした。

「そう、そういうことだよ。俺は寺井洋一。小針工大付属の監督だ」

「え……ええ!」

 一番驚いていたのは友希だった。友希でも名前を聞いたことのあるその高校は、今年の春の甲子園にも出場し、次の夏の甲子園も県予選の本命と言われている。そんな高校の監督が目の前にいる。無理もないことだ。

 しかし、鷹助は全く興味がなさそうに彼を見ていた。

「おじさんのお兄さんが小針の監督だったんですか!」

「おうよ。だから呼んだ。鷹助をぜひ一度見てほしいってな」

 それを聞いた友希は大喜びで鷹助を見た。

「鷹助! すごいよ大チャンスだよ!」

 と彼女が言うと、洋一も頷く。

「そうだ、大チャンスだ。小針で生き残れば、甲子園も夢じゃない。君は甲子園に出たいんだろう? うちに来てくれればそれも叶えられるぞ」

 洋一はすでに、彼を招き入れることを決めていたようだった。たった数球見ただけで彼に惚れ込んでいたようである。彼は鷹助をスカウトするつもりでそう言った。

 甲子園を目指す上で、こんなチャンスはない。野球をまともにやってこなかった選手が、自分の努力一本で名門の一員になろうとしている。シンデレラストーリーそのものだ。

 だが……鷹助にとっては違う。彼はもう、進路をはっきりと決めていた。

「ありがとうございます。でも、行きません。俺は草薙に行きます」

「え……鷹助くん、来ないのか」

 悩むこともなくあまりにはっきりと断られたために、洋一はあっけに取られた。

 父兄に相談するとか悩むそぶりを見せて断られることはあったが、ほとんど即答で断られたらのは初めてだった。

「ありがたいですが行きません。俺は草薙高校で甲子園に出たいんです」

「鷹助……お前……」

 甲子園に出たい、というのは聞いていたが、そこまで具体的にというのは洋次はおろか、友希も初耳だった。

「俺は父さんが行けなかった甲子園に、草薙からこの投げ方で行きます。それで……夏木嶋にも絶対に……絶対に勝つ。この二つは譲れません」

 鷹助は真剣な表情で、静かに、だが熱くそう言い切った。

 そして、その名を聞いた洋一はより真剣な表情になっていた。

「彼を知っているのか」

「はい。俺を……父さんを馬鹿にした奴です。俺はそいつを殴って野球ができなくなりました」

「そうか……なら、因縁の相手だというんだな。そして君は、草薙高校に入って親父さんの行けなかった甲子園に行くと。それは揺るがないんだな」

「はい。絶対に行きます」

 鷹助の揺るがない意志を確認して、洋一は目を閉じ笑った。

「……ふふ。君もなのか」

「え?」

「いや、何でもない」と言って、彼は続ける。

「これ以上君を説得するのは不粋だ。こんなに強い気持ちを持っているからな。今日はありがとう。君にまた会えるのを楽しみにしておくよ、いち野球ファンとして。そして監督として、ね」

 洋一はそう言い残すと、くるりと振り返って背中を見せた。

「草薙に入れば必ずいい出会いがある。必ず受験に合格するんだぞ。行こう、洋次」

「え……? どういう意味……」

 洋一はもうそれ以上何も語らず、振り返ることもなく去った。

 洋一と洋次は、堤防の階段を上がり切ったところで腰掛けて下に残った二人を見る。鷹助と友希は何か話した後、すぐに投球練習を再開した。

「なんの因果かね。まさか草薙に行くのを理由に二年連続で断られるとは」

「OBとしては嬉しいけどな。でもまさか、鷹助がそこまで思っていたとは」

「しかも……夏木嶋との因縁もあるんだろう。夏木嶋はうちで決まってる。どのみち縁がなかったわけだ」

「げっ……そうだったのか。あの怪物スラッガー、小針に入るのか」

「そうだ。もう確定だ」

 そう言って、二人は鷹助を見る。

 鷹助のボールはやはり素晴らしい。自力であそこまでたどり着く芯の強さ、そしてストイックさは惚れ惚れする。洋一も洋次も、それは感じている。

「俺はな、監督だけどいち野球ファンだ。ああいうハングリーさの塊みたいな奴らや天才たちの勝負が見たいんだ。真剣勝負で力と力でぶつかり合うのを、特等席で見ていたいんだ。あの子は、きっと這い上がってくる。そしてきっと、俺たちに立ちはだかる。そんな気がしてる」

「……そうなるといい。俺もあいつにはできるだけのことをしてやろうと思ってる。兄貴に負けんようにな」

 弟の言葉に、洋一は笑う。

「じゃあ、実質お前は敵だな。彼を最高の舞台まで引き上げてやれ。鷹志くんをリードした時みたいに」

「そのつもりだよ。社長権限を存分に使うさ」

 そう言って、洋次はタバコに火をつける。青白い煙が風になびく。

「リアルで野球漫画を見ているみたいだな、しかし。逆境に幼馴染が寄り添ってくれてる。俺らにもいて良かったんじゃないのか?」

「……兄貴もそう思ったか?」

「やっぱそうだよな? 俺らに足りなかったのはあれだよ、ははは」

「間違いないな、ははは」

 二人は立場を忘れ、鷹助たちをしばらく眺めながらそんなバカな話をしていた。

 その後、鷹助は宣言通り草薙高校に進学。この時の縁が、名門小針工大附属と草薙の練習試合が行われるきっかけとなったのであった。



 

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