第四章 仕事主義

第019話 地獄

 空気が振動する音も、自分の心臓が脈動する音も聞こえない。

 熱波にのって鼻腔をくすぐっていた埃の臭いも、服が肌に擦れる感触も、体の重みを支える足の裏の感触もない。

 自分が立っているのか、寝ているのか、座っているのか、それすらもわからない。

 ただ「何もない」という状況を認識できる意識だけは、ハッキリと残されている。

 これが悪魔に体を乗っ取られている状況なのか。

 今こうしている間にも、悪魔は俺の体を使って、好き勝手な行動をしているのだろう。

 救いがあるとすれば、この状況なら俺の体がしでかす悪行を見ずに済むってことくらいだな。


「ん……?」


 暗闇に椅子が現れた。

 今にも足が折れそうなくらい古びた椅子だ。俺の家にあるのと、まったく同じものだ。

 なるほど。

 ここは完全な意識だけの世界。強く思い描いたものは意識の中で色や形を成していく。

 椅子に座って、リンゴを一つ思い浮かべると、手のひらにポンと現れる。

 齧る。味も触感もない。無味無臭。

 でも、瑞々しくて甘く、いい香りがすることを思い出すと、リンゴ本来の味や匂い、シャリシャリとした触感と音が感じられるようになる。

 意識だけでも、美味しいリンゴが食べれるのは嬉しいな。

 本物のヴェルクの意識も似たような状況だったんだろう。

 自分の意識だけが反映される世界は、むしろ外界からの雑音や雑念が取り除かれ、穏やかですらある。

 悪魔が安らぎを齎すなんて、皮肉なもんだな。

 ただ、その安らぎは悪魔が自分の体を乗っ取っていると理解していない時に限る。

 体の大きさからいってもヴェルクは子供だ。悪魔の存在自体、知らないだろう。意識の世界では、案外、楽しくやっていたかもしれない。


「誤算だったな……」


 虚無と知りつつ、美味しいリンゴを食べながら、意識の中で俺は呟いた。


「自分の体を囮にして、ヴェルクから悪魔を引っ張り出すつもりだったけど……これじゃあ次の行動が何も取れない」


 完全に蚊帳の外。現実の世界から隔離されている。

 いざとなったら自分で自分の命を絶って、女神に蘇生してもらう形で逃げようかと思ってたけど、手も足も動かせないからそれもできない。

 もしも俺が魔術でも使えたら、この状況でも何かできたんだろうか。

 俺は背中側のベルトに装着してあるサバイバルナイフを引き抜く。


「ものは試しか」


 躊躇いなく、自分の頸動脈を切ってみた。

 血が噴き出し、首から体へと流れ落ちていく。

 ……それだけだった。

 痛みもなく、血の匂いもなく、流れているはずの血の感触もない。

 俺が意識すれば、この通り……傷は塞がり、血は消えて、何もなかったことになる。

 ただの意識。意識だけの世界。現実には何も反映されることはない。


「あー……最悪だ……。これじゃあ仕事ができない。あー、最悪だ、最悪だ、最悪だぁ。俺は生きる価値もないクズだ。無魔のくせに何で冒険者なんてやってんだろう。仕事もこなせないのにさ。依頼人にとって迷惑にしかならないじゃん。才能がないなら早くやめろよなぁ。冒険者の信頼を穢してる自覚を持てよ」


 仕事が失敗した。頓挫した。完遂不能になった。破綻した。

 仕事をこなすことだけを目標に、無魔でも頑張って、死んでも頑張ってやってきたのに……生きることも死ぬこともできないこの状況、ただ永遠と仕事の失敗を感じさせられるこの状況は、俺にとっては地獄そのものだ。

 憂鬱だ。どこまでも落ちていけるくらいに、憂鬱だ。

 何の手立ても思い浮かばずボーっとしていると、暗闇に小さな光が一つ生まれた。


「……?」


 小さな光は、一つ、また一つと増えていき、やがて四方を覆いつくす満点の星空へと変わった。


「……まったく、どういうおつもりですか? ルーファス」


 奥ゆかしくもありながら、冷ややかな印象を受ける声に、俺は振り返った。

 後ろには、透明な椅子に座る神がいた。

 女神フレーデル。

 褐色の肌に緑色の瞳。上へ直進的に伸びる二本の角、後ろから生えた鱗のついた尻尾。

 女神って呼ばれてるし、女性らしい体つきをしているけど、性別は特定されていない。

 フレーデルはいつものように神の座に座りながら、積み重なった書類に目を通している。

 今も地上で息絶えた人たちを蘇生し続けているのだろう。

 しかし、どうして俺はここにいる?

 これも俺の意識が作り出したものなのか?


「まさか、生きたままこちらの世界へ足を踏み入れるとは……あなたのように神の手を煩わせる人間は、本当に珍しい」


 女神は書類に目をやりながら言う。


「え……? 本物の神様? 俺の意識が作り出した、偽物じゃないんですか?」

「神の存在は人間の理解を超えているものです。人間が意識して生み出せるのは、人間が自らの手で作り出せるものだけですよ」

「はぁ……なるほど……って、え? 神様が本物だったら、俺は死んでるってこと? あの悪魔が適当な行動をして、俺の体を死なせたのか?」

「いえ、あなたの体は今も現世で存命しています。……悪魔に横取りされてしまったようですが」

「生きてるのに、何で俺はここに?」

「あなたの魂が、意識の中で『死』という概念そのものを作り出したのでしょう。心当たりはないのですか?」

「……あ」


 生きながらにして仕事の失敗を感じさせられ続ける世界を、俺は地獄だと思っていた。

 死にたいと願った訳じゃない。あの状況こそが、俺にとっての『死』そのものだと感じていた。


「仕事ができないなら、生きていても、死んでいるのと同じだって……」

「何事にせよ、使命を抱き、持てる命を無駄なく使い切ろうとする姿勢は、与えた側からすると見ていてとても心持ちのいいことです。ですが、今のあなたは、現世に自分の命を置き去りにしている。どんな不条理の中でも、私が与えた命を放棄しないでください。まして、悪魔にくれてやるなど……正直、萎えます」

「……す、すみません」


 女神を萎えさせてしまった。

 なんか、普通に怒られるより傷つくな。


「しかし、あなたには感謝しなければならないこともある。悪魔の存在を確認できた。魔界の門が閉じられているのに、悪魔が現世にいるのですから、どこかに抜け道があるのでしょう」


 フレーデルがこちらを見る。

 奥深くに黄金の輝きを秘めた深緑の瞳は、様々な次元を通して俺という存在を定義づける。

 女神に見られた。たったそれだけで、存在を認めて貰えた嬉しさが、全身に沸き立つ。


「ルーファス、あなたにお願いがあります。現世に戻った際には、悪魔が使用していると思われる、魔界へ通じる抜け道を見つけ出し、それを破壊してください」

「……それはつまり、俺に仕事を依頼するってことですか?」

「いかようにも受け取って頂いて構いません」


 もう勇者一行を魔王城に案内する仕事と、ヴェルクの家族を見つける仕事で立て込んでるんだよなぁ。

 ヴェルクの中身が悪魔だからって、仕事は放棄できない。

 外側は本物のヴァルクの体であって、意識もどこかに眠ってるはずだ。家族探しは絶対にやり遂げなきゃいけない。

 となると、三つ同時に仕事を掛け持ちするのは、さすがに欲張り過ぎか。


「お忙しいようなら、他の方にお願いを……」

「いや、やります! やらせてください!」

「ですが……」

「神様にはずっと恩返しがしたいって思ってたんです! 始めての神様からの依頼を断る訳にはいきません!」

「そうですか。では、頼みましたよ、ルーファス」


 女神が手を差し出すと、持っていた食べかけのリンゴが丸い形に復元し、黄金に光り出した。


「命が存命なあなたを蘇生させることはできません。あなたの意識に、私の力を与えましょう。それを食べれば、体の主導権を取り戻せるはずです」

「本当ですか!? ……ああ、でも神様、取り戻すのは半分までにして欲しいんですが」

「半分? 何故ですか?」

「悪魔を外に出してしまったら、また別の誰かの体に隠れてしまいます。それなら、自分の体の中で捕まえておいた方がいい」

「……あなたは、どこまでも他人想いな方なのですね」

「仕事の邪魔になる要素は、確実に排除しておきたいだけです」

「いいでしょう。少し効力を下げました」


 女神が指を動かすと、リンゴの輝きが弱まった。


「ありがとうございます、神様。与えられた仕事は、死んでも完遂します」

「あなたの言葉に嘘がないことは、よく知っています。ですがお気をつけて。命が絶たれる姿は、誰であろうと気持ちの良いものではありません」

「はい! 気をつけます! じゃあ行ってきます!」


 俺はリンゴを齧った。

 爽やかな香りが鼻腔を抜けた時、景色が引き延ばされ、俺の意識が下へ下へと落ちていった。

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