第2話 事件勃発。これ以上は言えない。


「華乃、お風呂入らないの? お父さんが帰ってきたらバッティングするわよ」

「どうしようかなあ……」


階下から言われて、わたしは一応パジャマを掴んで部屋を出た。お父さんはお風呂好きだから、十時過ぎに帰ってきたらまず風呂なのだ。先に入っておかないとだいぶ長い事待たされる。


お風呂に向かう途中、リビングからお母さんが廊下に顔を出す。


お母さんはごくごく普通の人で、肩に付かない程度の黒髪ボブ。スタイルは悪くないのにいつも量販店の地味なパンツとニットで、食事の用意の時以外でもエプロンをユニフォームみたいに着ている人だ。

やさしくて穏やかで、たぶん、世間一般のお母さんよりおっとりしてると思う。


「お父さん、もう駅に着いたって」


スマホに連絡が入ったらしい。こうなったら早い者勝ちだ。わたしは長風呂の趣味はないので、今から入ればそうおまたせはしないだろう。


「じゃ、やっぱり先に入っとく。あ、お母さんわたし土曜日にチョコチップが必要なんだけど」


「? 食べたいってことじゃなく?」


「部活で使うの」

お母さんに買ってきてもらえば、お金は払わずに済む、わたしはそんなケチ臭い考えで言う。


「製菓用のやつが要るんだ。スーパーでも売ってるからさ、もし買い物のついでに買っといてもらえたら……」

別にそのくらい、言えばお金はくれるんだけど、なんとなく家計からその余計な出費を出してくれと言いづらい。そのくせ出費を惜しんで、わたしは浴室に逃げながら捨て台詞で頼んだ。

お母さんは何か返事をしてくれたけど、わたしは聞かずに浴室のドアを閉めた。


「……ふう」


うちは、家族仲はいい方なんだと思う。少なくとも夫婦ケンカは見たことがないし、わたしに対してもすごく甘々だ。欲しいといえばたいていのものは買ってくれるし、可愛がってくれる。でも、なんだかわたしは居心地が悪い。だから、さっきみたいな、なんでもないリクエストすら、微妙に口にするのに気が引ける。


「まだ厨二が抜けないのかなあ……」


服を脱ぎ、洗濯機に放り込みながら思わず呟いてしまう。わたしにはどうにも、この家族がしっくりこなくて借り物のように感じてしまうのだ。

でも、これはやはり“思春期の少女は皆、継母願望を持って自己憐憫に浸ろうとする”とかいう文豪の分析通りなのだろうか。とはいえ、この“しっくりとこない”違和感は拭えない。


平凡を絵に描いたような建売の一軒家。安定第一の公務員である父。パートで働き、そこそこ緩く社会と繋がっている母。可も不可もない地味めの一人娘。

このテンプレはどうしたものだろう。


「いや、突飛な何かになりたいわけじゃないんだけどさ」


ブツブツ言いながらシャワーを捻った。頭から濡らし、シャンプーしてから身体を洗うのがわたしの流儀だ。上から下へ、実に効率のよい洗い方だと思う。


「ん……?」


髪に垂らしたシャンプーを泡立てたあたりでなんとなく、一瞬貧血みたいな感じがあった。

クラっと視界が歪んだ気がしてぎゅっと目を瞑り、転倒すまいと足を踏ん張る。でも全然ダメで、わたしはそのままぺたりと風呂場の床に座り込んだ。ちょっと奮発して付けたシャワーヘッドから霧雨みたいなお湯が降り注いでくる。


――うわー。目が開けられないよ。


どのくらいそうしていただろう。グラグラした感覚が治まって、そっと目を開けた時、バスルームは湯煙でほの白くなっていた。でも、それ以上に何か視界が明るい気がして、わたしはしばらくぼうっとその原因を捜し、ようやく前髪がおかしいことに気付いた。


「え……?」


前髪どころじゃない。私の髪は確かにギリギリ後ろで一つに縛れる程度の長さしかなかったはずなのに、いつの間にか座り込んだ腿や床に髪が触れている。しかも金髪……。


「…………」


もう一度言おう。金髪だ。しかも、ふわっふわのクルクルの、マンガみたいな長くて淡くて輝いている金色の巻き毛…………。


「…………まって。幻聴?」

いや、幻視か? そこを突っ込んでる場合じゃないだろうと思いつつ、わたしは胸元のひと房を手で掬い、お湯をきらきらと弾く眩しい黄金の髪に瞬きを忘れた。


――妄想がついに頭まで到達したとか?


思い込みというのは恐ろしいものだ。ヌン部で妄想ごっこなんかやっていたから、視覚情報までおかしくなったのだろうか。わたしはアホみたいに瞬きを繰り返し、手にした髪を引っ張ったり眺め直したりしてみる。


「テンションを感じる……てことは、ふつうに地毛ってことだ……?」


引っ張るとちゃんと頭皮についている感じがある。


いや、そもそも呪いの人形じゃあるまいし、髪なんてそんなににょきにょき伸びるもんじゃない。自分で自分に突っ込みを入れているうちに、わたしはそれどころではない異変に気付いた。


「腿……細くない?」


髪の毛に気を取られていたが、そもそも髪を掬っている自分の指自体も自分の手ではないのだ。

自分の手はこんなに華奢ではなかった。こんなに白い肌でもないし、爪の形だって全然違う。


――まるで、他人の手みたいだ。


恐る恐る、湯気で曇った鏡をその細い手でキュッと拭いてみてみると、そこには見たこともない美少女がいた。


「……ウソ…………」


淡い金色の長い髪。華奢で、小さな顔。ペールブルーのお人形みたいに大きな瞳。なんか塗ってるのかと思うほど綺麗にグラデーションしているサクランボ色の唇。ばら色の頬……。


――誰これ。


思わず鏡を触ってしまう。

当然だが、鏡の向こうの美少女も、驚いた顔で見つめてくる。


「…………美少女と手を合わせちゃったよ」


いやこれ鏡だし……とか、こんな時にセルフボケを入れてしまうのがヲタ根性だ。


とはいえ、さすがにこれはボケでは済まされない。

何が起きたんだろう。それとも、本当に立ち眩みを起こして、昏倒中なのだろうか。


「でも、えらい可愛いな」

夢オチだとしても、この可愛さはすごい。


確かに、昔想像したことはある。

実はわたしは本当は金髪で、染めて隠しているだけで、シャンプーしたら色が落ちて本当の姿が現れる……とかいうやつだ。


その妄想が、今まさに現実のものとなっている。


「いやしかしな……もしかして、この鏡がドッキリだとか」


それにしてはリアルに同期する。わたしは斜めを向いたり、後ろ姿で振り返ってみたりして、何気に全身確認がやめられない。


――ボディバランスも完璧すぎだろ。


細くて長い手足。白い肌。触れると自分だという感覚はある。

実感がないままふわふわとした気持ちで鏡に向かっていると、脱衣所のほうから声を掛けられた。お母さんだ。


「華乃? 聞こえる?」


長風呂というほどでもないのに、何故風呂場に来たんだろうか。しかもお母さんの声がなんだか緊張している。


「何もなかった?」


「え……何って」


この大変身を言うべきなんだろうか。


――でも、これ夢かもしれないし。


「あ、ごめんなさいね。何もなければいいの」

「あ、お母さん……あ……あの」


――どうしよう。一応言っといたほうがいいかな。


この姿は嬉しいけれど、いきなり娘が別人になって風呂から出てきたら驚くだろう。


ちょっと迷っただけなのに、曖昧な返事をしたら、お母さんは緊張を走らせた声に変った。


「華乃? どうしたの? 開けていい? 開けるわよ?」


普段、絶対にそんなことをしない母がいきなり風呂の扉を開ける。

そしてびっくり、というよりは驚愕……とでもいうような顔をしてこちらを見ていた。

むしろ、わたしのほうがぽかんとお母さんを見上げる形になる。


「お母さん……」

「カノン様…………」


母が、その場でへたり込んだ。



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