門司港の小さな探偵社 ─ 潮位が示す真実

湊 マチ

第1話 依頼人は潮の匂い

 階段を二段のぼるごとに、カフェ〈エトワール〉の深煎りの匂いが薄れ、海の塩気が静かに混じってくる。二階のすりガラスに、金色の文字が揺れた。三田村探偵事務所。


「いらっしゃいませ」

 私──三田村香織は、灯りをつけてから壁の潮汐表に目をやる。今日の満潮には赤丸で“15:12”。最初に見るのは、たいてい時間だ。人の気持ちは揺れても、潮は揺れ方を決めてくれる。


 傘立てには透明のビニール傘が二本。椅子から立ち上がった女性は、淡いベージュのコートの裾がふくらはぎまでしっとり濡れていた。髪の先に、小さな塩の粒。


「江藤未紗(えとう みさ)さんですね」

「はい」

 声は落ち着いているのに、指先が鞄の取っ手を確かめるみたいに触れている。私は湯気の立つ麦茶と、〈エトワール〉のレモンケーキを小皿にのせた。


「甘いものは、話す前でも後でも効きます。お好きにどうぞ」


 未紗さんは小さく笑って、礼を言った。その笑顔が、すぐに真面目な表情へ戻る。


「婚約者が、先週の金曜に桟橋から落ちて亡くなりました。会社は“雨で足を滑らせた事故”だと……でも、雨の匂いがしなかったんです。地面は濡れているのに、あの日の夕方は、土の匂いじゃなくて海の匂いだけ」


 女の人の“匂いの記憶”は、とても正確なときがある。私は頷いた。


「まず、未紗さんが残してくれた写真を見せてください」


 スマートフォンの画面に、古い板張りの桟橋。欄干の下、板の表面に淡い帯が一本、水平に走っている。私は右下を指で示した。


「撮影時刻 14:40(EXIF)。そしてこの帯は潮の線──海がここまで満ちて、引いた乾きの痕です」


 壁の潮汐表に視線を移す。

「この日の満潮は15:12。つまり14:40の時点で、板はもう“乾き始め”に入っている」


 未紗さんは頷き、封筒から数枚のコピーを出した。

「会社の“事故報告”です。『18:30ごろ転落』『18:42に救急要請』『天候:小雨』『救命具:未使用』」


 私は三つの時刻を紙に並べて書く。

14:40(写真/潮の線)/15:12(満潮)/18:30(会社報告)→18:42(救急)

「まずは時間を確かめましょう。雨は言い訳になるときがある。でも、潮は嘘をつかない」


 向かいの椅子で、うちの調査員・藤田が手を上げた。

「俺、港務所へ行って管理人の立会いを取るわ。現場の潮位と板の乾き、それと監視カメラ。釣り人の証言も拾える」

「お願い。私は未紗さんと心の準備を先にします」


 藤田が出ていくと、部屋は静かになった。未紗さんのマスクの縁がわずかに震えている。私は箱ティッシュを少し押し出し、レモンケーキの皿をそっと近づけた。


「たぶん、今日だけは自分を責めないって決めて来てください。泣く場所を探してここに来たなら、うちの事務所はそのためにもあります」


 未紗さんの目が、少しだけ緩んだ。

「ありがとうございます。でも、まず話させてください。彼──長瀬海斗(ながせ かいと)は、金曜の朝、メッセージに『今日こそ指輪を見に行こう』って。私、17:02に駅前の花屋でブーケを買って……このレシートが証明なんですけど。会社から連絡を受けて、桟橋へ向かう途中、やっぱり雨の匂いがしなくて」


 私はレシートの時間をなぞる。17:02。

「ありがとうございます。未紗さんの“おかしさ”は、きっと正しい感覚。このあと現場を見ます。──一つだけ確認。長瀬さんは腕時計を?」

「防水のダイバーズを。左手に。会社からは何も……」

「もし止まっていたら、止まり時刻は強い手掛かりになります。逆に止まっていなければ、真水で洗われた可能性も出てくる。今は可能性としてだけ、覚えておいてください」


「はい」

 彼女の声には、芯があった。泣かないように我慢している人の、それでも折れない芯。


     *


 港務所の掲示板には、朝見たのと同じ潮汐表。管理人の古賀さんが、眉の濃い親切な人で助かった。

「現場はあっち。満ち引きは一日二回や。今日は15:12満潮、今は引きの途中」


 桟橋の板面には、写真と同じ潮の線がまだ微かに残っている。私はメジャーで欄干からの**高さ(約85cm)**を測り、メモに書いた。古賀さんがうんうんと頷く。


 藤田が救命具の箱を開け、磁石を指で示した。

「古賀さん、これ内向きに付いてますよ」

「おお……いつもは外向きにしとる。風で勝手に閉じんように、そうしとったのに」

 箱の縁には新しい擦過が一本、斜めに走っている。中の浮環の縁にも、最近ついた浅いキズ。ロープは一度ほどいて巻き直したような乱れ。


「会社の報告は『救命具:未使用』でした」

 古賀さんは口を結んだ。「“正式には”そう書くしかないこともあるんやろう。けど現場は、使ったと語っとる」


 そのとき、桟橋の根元で釣り人のおじいさんが手を振った。

「金曜の夕方な、白いもやが急に出て、カメラが役に立たん時間があったで。あの箱のとこで若い衆が二人、慌ててロープ引いとったのは見たわ」

 藤田が帽子を押さえた。「海霧(うみぎり)ですね。管理室のログにも16:10〜16:28のノイズが残ってました」


 私は板面を斜めから見た。乾きかけの板に、二歩だけ濡れが滲んだ跡。

「誰かが濡れた足で上がって、すぐ引き返している。──18:30の“転落”と言われる時間帯には、もう滑るほどの濡れは残りにくい。14:40の潮の線、15:12満潮、16時台の海霧、そして18時台の乾き。全部が、時間の方を指している」


 港務所へ戻る途中、駐車場の水たまりの輪じみが途中で切れていた。藤田が顔を寄せる。

「塩素の匂い。真水を撒いたかもな」

 古賀さんが眉をひそめる。「ホースは管理室の鍵が要る。金曜の夜に出した記録は……帳面には無い」


 私は深呼吸をした。誰かが善意でしてしまったことを、上がどう書類にするか。その違いは、女の人の人生を簡単に傷つける。だから、手続きで守る。


     *


 詰所の受付にいた若い社員の狩野さんは、こちらの質問に真面目に答えてくれた。

入退室ログ:長瀬 8:57入室/退室記録なし

作業日報:午前 点検/午後 資材整理

内線履歴:16:37 倉庫→現場PHS/18:31 上司携帯→内線/18:42 119

 袖口のフリースが少し擦れていて、右手首に薄い擦り傷。ロープを何度も引いた人の手だ。


「救命具の箱に触れましたか」

「……いいえ」

 答えは速い。でも、声が少し砂にかかる。私は追い詰めない。代わりに、手続きを置く。


「腕時計の件は警察に照会します。もし止まっておらず、真水の痕が出るなら、洗浄の可能性が高くなる。会社に**“事故”にしたい事情があるとしても──労災**、保険、就業規則──まず時間を正確にしないと、誰も守れません」


 狩野さんは俯いて、ぽつりと。

「20時ごろ、ホースを出しました。鍵は……上から。掃除のつもりで。……すみません」


 謝る相手が違う、と言いかけてやめた。誰かがもう十分に自分を責めているとき、人は正しい言葉より水を欲しがる。私は〈エトワール〉の紙コップに水を満たし、「ありがとうございます」とだけ言った。


     *


 事務所へ戻ると、未紗さんが待っていた。さっきより顔色が明るいのは、きっとレモンケーキの糖分のせいだけじゃない。


「会社のQRログを(見られる範囲で)メモしてきました。18:00〜18:30の入退室が空白なのに、内線だけが動いてて……変です」

「充分です。線がつながってきました」


 机の上に白紙を広げ、私は太い線を一本引く。潮の線。その下に14:40、上に15:12、右に16:10〜16:28 海霧、さらに右端に18:30/18:42。

「この紙は、未紗さんのためだけの地図です。私たちがたどる道を、全部ここに描きます。腕時計の止まり時刻、救命具の擦過角度、輪じみの途中で切れた理由──見える形に」


 未紗さんが小さく息を吐いた。

「私、途中で怖くなったら、ここで泣いてもいいですか」

「もちろん。泣くとき用のレモンケーキも、ちゃんと冷やしておきます」


 そのとき、向こうの港で汽笛が短く鳴った。ガラスがかすかに震える。藤田が窓の鍵を確かめ、私に顎で合図する。潮が、引こうとしている。


「行きましょう」

 私はレインコートに腕を通し、未紗さんと目を合わせた。

「潮が引く前に。──時間を、あなたのほうへ連れ戻しに」


――つづく――

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