第10話 傘と、空の匂い
雨は、昨日よりも弱まっていた。
けれど、空はまだ晴れきらず、校舎の上を覆うような薄灰色の雲が、どこか眠たげに漂っていた。
昼休み、色菜がぽつりとつぶやいた。
「雨上がりの匂いって、好きなんだ」
教室の窓際で、ほとんど誰もいない空間。
彼女の声は小さく、それでいて遠くまで届くような不思議な響きがあった。
「……匂い?」
「うん。わたしね、空の匂いって、ちゃんとあると思ってて」
そう言って、彼女は鞄から小さなノートを取り出した。中には、手描きの空のスケッチと、そこに添えられた言葉がいくつも並んでいた。
“降り止まない午後の匂い”
“歩道に残る雲の気配”
“水に濡れたやさしい青”
「……これ、空の匂いを言葉にしたの?」
「うん。匂いって、写真にも音にもならないじゃん? でも、ちゃんと“記憶”になるんだよ」
「記憶、か……」
「昨日の雨のことって、今日になっても身体に残ってる気がしない?」
言われてみれば、確かにそうだった。
昨日、色菜と昇降口で交わした静かな会話も。帰り道、傘が重なった瞬間の空気も。
まるで湿った空気と一緒に、今も身体のどこかに貼りついているようだった。
「……たしかに。匂いって、消えないんだな」
「そうなの。匂いと空と記憶って、なんか似てるんだよ」
そう言って笑う彼女の目が、どこか遠くを見ていた。
放課後。
雨は完全にはやんでおらず、まだ少しだけ降っていた。地面は波紋を広げている。
俺は傘を持ってきていなかった。
降らないと思っていたから、朝の空を見て「大丈夫だ」と勝手に判断した。
靴箱の前で立ち尽くしていたら、色菜がやってきた。
「……傘、ないの?」
「うん。いらないと思って」
「ふーん。じゃあ──」
彼女は透明なビニール傘を持ち上げ、俺の前にすっと差し出した。
「一緒に帰ろっか?」
「え?」
「道、少しかぶってたよね。駅の手前までは、同じ方向だし」
たしかに、そうだった。
けれど、傘に二人で入るというのは、思っていたよりずっと近い距離で──言葉を返す前に、彼女は先に歩き出していた。
俺は迷いながらも、その傘の下に入った。
ほんの少し、肩が触れそうな距離。
でも、彼女は気にしていないようだった。
「今日の空、匂うね」
「……何の匂い?」
「“やさしい放課後の匂い”。少し濡れてて、でも晴れたくてうずうずしてる感じ」
「それ……わかるようで、わかんない」
「ふふ。わかんなくていいの。空の名前とか匂いって、自分の中にだけあればいいものだから」
「……でも、綿森はそれをノートに書いて、残してるんだろ?」
「うん。誰かに伝えたいわけじゃないけど、忘れたくないから」
忘れたくない。
その言葉が、胸に少しだけ引っかかった。
「……俺も、絵に描いて残したくなるとき、ある」
「そうなんだ。どんなとき?」
「うまく言えないけど……心がざわざわするとき。たぶん、気持ちが形を探してるんだと思う」
「それ、すごくよくわかる」
色菜は笑って、傘を少しだけ傾けた。
そのせいで、彼女の髪から落ちた雫が、俺の肩にぽつりと落ちた。
ほんの小さな滴だったのに、なぜか心が大きく揺れた。
駅の手前の交差点で、俺たちは立ち止まった。
信号が赤になり、人の流れが止まる。
雨上がりのアスファルトが、街の光をぼんやりと映している。
「ここで、分かれるね」
「うん」
「……あのさ」
「ん?」
「もしまた、雨が降ったらさ」
「うん」
「また、同じ傘に入ってくれる?」
色菜は驚いたように目を見開き、それからゆっくりと頷いた。
「うん。よろこんで」
その返事に、俺は言葉を失った。
ただ、胸の奥に何かが確かに生まれているのを感じていた。
名前のない気持ち。
でも、傘の中のあの匂いが、それを思い出させてくれる気がする。
信号が青に変わって、俺たちはそれぞれの道へ歩き出した。
背中が離れていくのが、少しだけ惜しく感じた。
振り返ると、彼女はまだこちらを見ていて、軽く手を振ってくれた。
俺も手を挙げて応えた。
そして思った。
“あの空の匂い”、きっと忘れない。
たとえ言葉にできなくても。
たとえ、気持ちに名前がつかなくても。
今日の傘の中にあったものは、本物だった。
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