この灰色が溶けるまで

北宮 晴

第1話

 僕が記憶を失ったのは、十八の春だった。

 事故当時の記憶は勿論無いが、家族の話によると信号無視のトラックにはねられたらしい。そしてその時のショックで、十八年と一ヶ月分のエピソード記憶が全て吹き飛んでしまったという訳だ。

 こういった類の記憶喪失者にありがちなのは、失った記憶を躍起になって取り戻そうとするか、あるいは記憶を思い出す事を頑なに拒否するかの二択なのだそう。しかし僕はそのどちらでも無かった。

 記憶が戻れば良いし、戻らなければそれで良い。

 僕がそのスタンスに至った原因は、現状をありのままに受け入れよう、というおおらかさによるものというよりは、記憶への執着以前にあらゆる物事に興味を持てなくなってしまったせいだった。

 僕は十八歳で記憶を失い現在二十歳になるが、その空白の二年間に、あの悪名高き「引きこもり」という種類の人間に堕落していた。

 記憶を失った当初こそ、両親(僕は一人っ子だった)に支えられつつ新たな人生をスタートさせようと試みていたが、日が経つにつれて僕は気が付きたくも無いことに気が付いてしまう。

 誰一人として、友人や恋人が見舞いに来ないのだ。見舞いどころか連絡の一つも来ない。

 実際、自宅に帰ってから部屋の引き出しに入ってた日記を読み返してみたが、内容は「お腹すいた」や「眠い」、「勉強したく無い」などばかりで、賑やかで人に囲まれた生活を送っていなかったのは容易に想像できた。

 ああ、生前(今も生きているが、語呂が気に入ってこの言葉を使っている)の僕は本当に人望というものが無かったようだ…。

 そう考え出してからは、僕のネガティブが加速度を付け始めた。きっと記憶が失われても、このネガティブだけはしぶとく僕という人間に根を張り続けていたのだろう。

 こんな僕が新たな人生を始めようとしたって、きっと上手くいかない。ただでさえ他人から歓迎されるような人間ではないのに、記憶障害というハンデ付きの人間を受け入れてくれる他者などますますいないだろう、といった具合に。

 不安障害、といった診断が心療内科の医師からなされてすぐに僕はバイト先を辞め、大学を辞めた。初めは心配してくれていた両親も、次第に呆れ始め今では脛を齧り続ける僕をいないものとして扱っている。当然だ。

 だから不謹慎だということは分かりつつも、あの時いっそ僕の命ごと轢き殺してくれれば良かったのに、と何度も思ってしまう。それがあのトラックは器用に僕の記憶だけ奪い去っていきやがった。

 何はともあれ、僕はもうこれ以上生きたくないのだ。生きていたって良い事は一つも起こらないし、ただ現実的な不安感だけが確かな足音を立てて僕の自室の扉をノックする。

 だからその不安が扉を開けてくる前に、僕は窓から飛び降りるという選択肢を選ぼうと思う。

 僕はこれから自殺する。

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