第14話 ただ一筋の光《きぼう》 その壱
「貴方が……邪神の信徒だったと?」
リリィの父親は静かにうなずいた。
ラークはひび割れた唇を舐め、この衝撃の告白をどう受け止めるべきか迷った。
暗黒神ジャグラーの教義は、ただ一つ――「好きなことを、好きなようにやれ」だ。
その加護のもとでは、暗黒魔法で破滅を撒き散らす者もいれば、善意から人助けに奔走する者もいる。
だが、無秩序の神の影にあっては、どんな「善意」も、やがて他者を省みぬ独善へと堕する。
そうした「善良」な信徒は、盗賊や殺人鬼よりもなお深い災厄を招くのが常だった……。
目の前の素朴な農夫は、そんな人間には到底見えなかった。
「……複雑な事情がありそうですね。説明をする余裕は?」
ブライアーは無言で首を振る。
「……そうでしょうね。それなら――」
ラークは拳を握り、籠手の仕掛けナイフを飛び出させた。
「何をするんですかっ!」父親が身構える。
青年は革製の外套を脱ぎ、その布に刃を突き立て、聖印を切り取り、手渡した。
「情けないことですが、僕たちはこの結界に手も足も出ません。 貴方に頼るしかないが、生身で行かせるには、この嵐は危険すぎる。だから――せめてこれを」
そのマントは、アマータに認められた光の戦士の証。鋼鉄の矢をも弾く、鎧熊の皮で出来た特製の防具だった。
ブライアーはわななく手でそれを受け取った。
聖職者が自分の聖印を傷つける。その意味の重さと、青年の信頼がずしりと腕にのしかかる。
「……なんと礼を言えばよいのか」
「気にしないでください。これは光の子らを守るために授かったもの。ただの布を惜しんで信徒を危険にさらす方が、よほどアマータ様に叱られますよ」
「貴方にアマータの加護があらんこと」そう言って、青年は白い歯を見せ、嵐の中で笑った。
ーーー
ラークと別れを告げた後、ブライアーは歩みを再開した。
結界の中心――娘のいるはずの方角へ。
だが、一寸先も見えぬ黒風の中では、方向も距離も時間すらも掻き乱される。
ほんの十数歩の隔たりを、まるで一時間かけて歩んでいる気がした。
さらに進路を阻むのは、嵐に呑まれた納屋の残骸だ。
彼の胴ほどもある柱が頭をかすめ、鋭い農具や釘が絶え間なく体を叩く。
もし祓魔師の若者から受け取った外套がなければ、今ごろ全身穴だらけで血溜まりに沈んでいたに違いない。
だがこの嵐は、肉体だけでなく精神をも蝕む。 吠え狂う暗黒の風は、彼の心に分け入り、目を逸らしてきた最も暗く苦痛な記憶を抉り出す。
――英雄になりたかった。
その望みを抱いたのは、いつのことだったか……。
ザクサン王国の準男爵の六男、それも妾腹の子として生まれた時点で、運命は詰んでいた。
爵位は長男に継がれ、財産は他の兄弟に分け与えられ、自分には一握りの土すら残らない。
このままでは飼い殺され、良くて兄の召使として、一生を終えるのは目に見えていた。
だからこそ剣を取り、冒険者となり、未来を切り開く――
そんな選択が、唯一理にかなっているように思えた。
弟の計画を聞いた上の兄弟たちは、武器と防具の一式を揃え、喜んで彼を送り出した。
表向きは名残を惜しんでいたが、内心では胸を撫で下ろしていたに違いない。
当時の彼は体格に優れ、力は群を抜き、武術大会では幾度も優勝をさらった。
彼にすり寄り、兄弟を押し退けて領主の座を奪うよう唆す者も少なくなかった。
そんな居心地の悪さもまた、故郷を飛び出して未知の旅へと向かわせる原動力となった。
――英雄になりたかった。なれると信じていた。
冒険者になってからは、すべてが順調に思えた。
もちろん、失敗がなかったわけではない。 成り立ての頃は初心者らしくドジを踏み、思いもよらぬ強敵に死を覚悟したこともある。
だが、情熱と若さが最後にはそれらを乗り越え、躓きさえも成長の糧に変えていった。 彼は依頼を果たして実績を積み、飛ぶような速さで名声と力を手にしていった。
木っ端貴族であった頃には得られなかった、本物の仲間もできた。
危険な旅路で背中を預け合い、幾度も命を救い合った、かけがえのない親友たちだった。
自分の名が吟遊詩人の唄に乗り、酒場のどこででも語られ、
おとぎ話の英雄のように子供たちの羨望の的となる――
そんな途方もない夢が、次第に現実味を帯びていった。
自分は神に愛され、遥かな高みに続く階段を登っているのだと、疑いもしなかった。
――なんという傲慢。
未熟ゆえの無邪気だったことか。
好調な上り坂が、地獄に続く断崖へと変わった切っ掛けは、一夜の出来事だった。
困難な討伐を終えて上機嫌だった彼は、酒場でバーメイドに狼藉を働く若者を懲らしめた。
思いを寄せていた娘を守ろうと、必要以上に痛めつけてしまった。
翌日、伯爵の館に呼び出された時には、そのことなどすっかり忘れていた。
街を悩ませていたハイドラを退治した褒美でも下されるのだろう、と呑気な予想をしていた。
油断しきった彼は、武器も鎧も兵士に預けてしまった。
伯爵の執務室で再会したのは昨晩、拳を叩き込んだ顔。
ぶちのめした相手が、お忍びで城下に出ていた、伯爵の嫡男だと知ったのはその時だった。
殴られ、縛られ、地下牢に放り込まれた。 伯爵は事実をねじ曲げ、彼を「酒場の女中に乱暴を働き、それを止めた息子に暴行した」と告発した。
酒場には目撃者が大勢いたが、皆が買収され、脅され、口を揃えて嫡男を支持した。 仲間たちは必死に彼を弁護したが……根無し草の冒険者は、一城の領主の決定に抗う力を持たなかった。
自白を強要するために、そして嫡男の憂さ晴らしのために、兵士たちはたっぷり彼に拷問を与えた。
だが最も堪え難かったのは――守ったはずの少女が、自分を「暴行魔」と呼んだことだった。
両親の店を守るため、自らを守るために仕方なかったのは理解している。
それでも、胸を抉る痛みは変わらない。
「本来なら縛り首だが……冒険者としての功績を考慮し、財産没収の上、追放処分とする」
横柄な顔で伯爵が、そう宣告した。
着物一枚で街から追放された時、すべてが終わったと思った。
冒険者としての誇りも、夢も――。
だが、人の悪意と人生の転落に底がなかった。
彼は街外れの森に連れ去られ、嫡男に雇われた魔術師の手で、拷問で砕かれた手足の骨と神経を治癒魔法で歪に繋ぎ合わされた。
戦うどころか、二度と走れない身体にされ、その上で伯爵家の隠し鉱山に奴隷として放り込まれた。
そこはまさに生き地獄。
看守は囚人たちをいがみ合わせ、最低限の食事で限界まで働かせた。
抵抗する力を奪われた彼は、あっという間に食物連鎖の最下位近くまで転落した。
尊厳を奪われ、獣以下に堕ちた。
すべてが苦しかった。
言葉では言い表せないほどに。
それでも、彼が自ら命を絶たなかったのは、仲間が必ず助けに来ると信じていたからだ。
信じ、信じ続けて――ただ待ち続けた。
最初の冬、凍傷で足の指を二本失った。
二度目の冬、自分の名前すら忘れ、鉱山こそが人生のすべてだと錯覚し始めた。
指を切り、血で壁に日記と仲間たちの名を刻んだ。
何度も、何度も……。
三年目の秋、肺炎に倒れ、病室と呼ばれる場所に送られた。
癒し手などいない人間のゴミ捨て場だ。
死にゆく囚人と死体が山のように積まれていた。
汚物にまみれたむしろの上で、ウジ虫に食われながら、死を待つ彼の耳に、
――暗黒神の声が響いた。
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