第1章:鳴かぬ鳥の村

 東京のコンクリートジャングルが吐き出す喧騒は、もう限界だった。鳴りやまない電話、積み重なるタスク、上辺だけの人間関係。水野楓、二十六歳。デザイン事務所の激務に心身をすり減らした彼女は、逃げるようにして夜行バスに乗り込んだ。目指すは、祖母が遺した古民家のある、夜鳴(よなき)村。

 バスが古びたトンネルを抜けた瞬間、世界は色と音を変えた。耳を圧していた都会のノイズが嘘のように消え、代わりに満ちたのは、濃密な緑の匂いと湿った土の香り。スマートフォンの画面には、無情にも「圏外」の二文字が浮かんでいた。ここだけが、まるで現代から切り離された孤島であるかのようだ。

 バス停から歩くこと十五分。息をのむほど美しい棚田が広がり、その先に、楓が目指す古民家はあった。黒光りする太い梁、日に焼けた縁側、少し傾いだ茅葺き屋根。埃っぽいが、どこか懐かしい樟脳の匂いが楓の鼻をくすぐる。

「ただいま……おばあちゃん」

 誰もいない家に向かってそう呟くと、張り詰めていた心の糸が、少しだけ緩むのを感じた。荷物を下ろし、縁側に腰を下ろして大きく深呼吸する。肺を満たす空気が、都会のそれとは比べ物にならないほど清らかで、美味しい。

 しかし、その完璧な静寂の中に、楓は微かな違和感を覚えた。静かすぎるのだ。鳥のさえずりも、虫の羽音も、生命が発するはずの音が極端に少ない。まるで、村全体が息を潜めているかのような、不自然な「音のなさ」。それがじわりと肌にまとわりつき、安らぎの中に小さな棘を刺した。

 しばらくして、砂利を踏む音が聞こえ、人の良さそうな老人が姿を現した。皺の刻まれた顔に、人の良い笑みを浮かべている。

「あんたが、水野さんちのお孫さんかね。わしは村長の佐伯です。ようこそ、夜鳴村へ。何もない村ですが、どうぞゆっくりしていってください」

 差し出された大根の瑞々しさと、その温かい歓迎の言葉に、楓の胸中の違和感はひとまず霧散した。この村なら、きっと疲れた心を癒せる。そう思えた。

 午後、少し元気を取り戻した楓は、村の散策に出かけた。すれ違う村人たちは、皆、佐伯村長のように親切だろうと思っていた。だが、現実は違った。彼らは一様に、楓に気づくと足を止め、無言で深く会釈をする。その動きは丁寧だが、表情はなく、目に至っては値踏みをするような、あるいは何かを警戒するような、氷のように冷たい光を宿していた。そして、誰もが必ず一瞥、楓の足元、地面に伸びる彼女の「影」に視線を落とすのだ。まるで、そこに何か不吉なものでも見るかのように。

 一人、また一人と、同じ反応を繰り返されるうちに、楓の背筋を冷たいものが駆け上がった。歓迎されているようで、全くそうではない。見えない壁が、自分と村人たちの間にそびえ立っている。居心地の悪さに耐えきれず、楓は早々に古民家へと引き返した。

 その夜、使い古された布団に身を横たえた楓は、奇妙な音で目を覚ました。キー、キー、と甲高く、耳を劈くような鳴き声。それは、遠くから聞こえてくるようだった。昼間、村長が「夜になると、夜鳴鳥(よなきどり)という珍しい鳥が鳴くんですよ」と話していたのを思い出す。だが、この音は、ただの鳥の声ではなかった。あまりにも悲痛で、まるで絞り出すような赤ん坊の泣き声のようにも、助けを求める人間の叫びのようにも聞こえる。

 その声は、静寂を切り裂き、闇の奥から楓の鼓膜を直接揺さぶってくる。身動きができない。得体の知れない恐怖が、鉛のように体を布団に縫い付けていた。

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