第2章:辺境伯との出会いと、乾いた大地の現実

 王都を離れて数週間。揺れる馬車の中から見える景色は、日を追うごとに緑が乏しくなり、荒涼としたものへと変わっていった。そしてついに、私の新たな領地となる旧ローゼンベルク辺境伯領――現在の正式名称はエルドラド王国北西直轄領へと到着した。

 しかし、私を出迎えてくれたのは、歓迎の花束ではなく、一人の男の氷のように冷たい視線だった。

「……貴女が、新たな領主のリリアーナ・フォン・ヴァインベルクか」

 馬車の扉が開かれると同時にかけられた、低く、警戒心に満ちた声。そこに立っていたのは、陽に焼けた肌に、無造作に伸ばされた黒髪の男だった。歳は二十代半ばだろうか。彫りの深い顔立ちは整っているが、その灰色の瞳は鞘から抜かれた剣のように鋭い光を放っている。質実剛健といった印象の、いかにも辺境の支配者といった風情の男。彼こそが、この地をエルドラド王国から管理委託されている、隣国グリューネヴァルト王国の現ローゼンベルク辺境伯、アレン・フォン・ローゼンベルクだった。

 彼の祖父の代まで、この土地は彼らのものだったのだ。奪われた土地に、奪った国の元公爵令嬢がやってきたのだから、その敵意も無理はない。

「ええ、そうですわ。ごきげんよう、辺境伯様。長旅で疲れましたわ。まずは館へ案内していただきたいのだけれど」

 私はあえて貴婦人らしく、扇子で口元を隠しながら言った。彼の敵意に怯むつもりはない。むしろ、このくらい気骨のある相手の方がやりやすい。

 アレン辺境伯は不機嫌そうに眉を寄せたが、何も言わずに背を向けて歩き出した。その背中を追いながら、私は改めて自分の領地を見渡す。

 ……ひどい。これは、想像以上にひどい。

 目に映るのは、どこまでも続く赤茶けた大地。地面はパサパサに乾ききっており、石がごろごろと転がっている。申し訳程度に生えている草は、どれも弱々しく黄ばんでいた。時折すれ違う領民たちの顔にも覇気がなく、その服装はみすぼらしい。村全体が、どんよりとした諦めの空気に覆われているようだった。

(これは……相当、やりがいがありそうね!)

 前世の血が騒ぐのを感じる。困難であればあるほど、燃えるのが農業魂というものだ。

 案内された領主の館も、名ばかりの粗末な建物だった。最低限の荷物を解くと、私は休む間もなく、持参した作業着に着替えた。レースやフリルのついたドレスを脱ぎ捨て、丈夫な木綿のシャツとズボンに身を包むと、心も体も軽くなるようだ。

「さて、と」

 館の外に出ると、私が雇ってきた使用人や護衛たちが、戸惑った顔で私を見ていた。そして、腕を組んで壁に寄りかかっていたアレン辺境伯も、私の姿を見てわずかに目を見開いている。

「何をなさるおつもりだ」

「見て分かりませんこと? これから、この土地の土壌調査を始めますの」

 私は持参したシャベルを手に、にこりと微笑んだ。

「まずは土を知る。農業の基本ですわ」

 そう宣言し、私は躊躇なく館の前の地面にシャベルを突き立てた。ガツン、と硬い感触が手に伝わる。掘り起こした土は、砂のようにサラサラとこぼれ落ち、湿り気を全く感じない。粘土質でもなく、腐葉土などもってのほか。これでは作物が根を張ることすら難しいだろう。

「やはり、まずは土壌改良からね」

 私は腕まくりをすると、雇ってきた者たちに指示を飛ばした。

「皆さま、これからこの土地を豊かにするための、最初の仕事を始めますわよ! まずは領内の雑草をすべて刈り集めてください! それから、村の方々にお願いして、家畜の糞尿を分けていただきましょう!」

「ふ、糞尿ですと!?」

「お嬢様、そのようなものを集めてどうなさるのですか!?」

 私の指示に、皆が悲鳴のような声を上げる。そんな彼らに、私は自信満々に宣言した。

「決まっていますわ。最高の『堆肥』を作るのです!」

 前世の農業高校で学んだ、コンポスト作りだ。有機物を微生物の力で分解させ、栄養満点の土壌改良材を作る。痩せた土地を甦らせるには、これが一番手っ取り早い。

 私は自ら先頭に立って雑草を刈り、村の家畜小屋を回って糞尿を集め始めた。もちろん、村人たちからは奇異の目で見られる。元公爵令嬢が、汚物塗れで働いているのだから当然だろう。

「エルドラドの姫様は、気でも狂われたのか……」

 そんな陰口が聞こえてきても、私は全く気にしなかった。目的のためなら、泥にまみれることなど厭わない。

 その様子を、アレン辺境伯が終始、信じられないものを見るような目で遠巻きに眺めていた。彼の灰色の瞳に浮かぶのは、冷ややかな警戒心だけではない、ほんの少しの当惑と、そして彼自身もまだ気づいていないであろう、微かな興味の色だった。

 こうして、追放された悪役令嬢の、泥だらけの辺境改革が始まった。乾ききった大地と、人々の閉ざされた心。どちらも、私の手で耕してみせる。そう心に誓いながら、私は一心不乱にシャベルを振るい続けた。

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