第33話 雷神


「…………ッ!」


 俺が持つ魔法の中でも、最高クラスの威力を誇る魔法だ。


 雷の直撃を受けた蛇王の身体は、黒く焦げていた。


 天に伸びる巨体の一部がまるで炭のように割れ、崩れ落ちる。傷は深く、明らかに再生の兆しすら見せていなかった。


 その瞬間だった。


 空気が変わり、空間の〝重さ〟が明らかに増した。


 焦げついた傷跡の奥で、蛇王がゆっくりと口を開ける。その虚無の瞳が、静かにこちらを見据えている。


 そこにはもはや痛みに歪むものはなく、俺の存在そのものを否定するかのような、静かな怒りがあった。


「っ……やばい――」


 言いかけた瞬間、音が消えた。

 蛇王の全身から重力の波動のような圧が放たれ、圧縮された空気が弾けていた。


 地を、霧を、視界のすべてが押し潰されていく。逃げられない。避けるよりも早く、蛇王の尾が地を這い、俺の身体を吹き飛ばした。


「ぐっ……あ、ああああッ!!」


 空間が歪む。喉が焼け、背骨に激しい衝撃が走る。岩盤に叩きつけられた視界が白黒に明滅した。倒れる俺を見下ろすように、蛇王の〝目〟が再び光を灯す。


 蛇王が、口を――開いた。


 それはもはや鳴き声ではなく、咆哮ですらない。存在の根底から響き出す、言語すら超えた〝呪詛〟だった。全てを呑み込む虚無の螺旋が蛇王の喉奥から噴き出し、世界そのものを侵食していく。


「ッ――ぐ、あ……ぁ……ッ!!」


 呪詛が触れた瞬間、俺の思考は断ち切られた。


 鼓膜ではない。皮膚でもない。意識の核が震え、砕け、崩れ落ちていく。


 全身の骨がひとつひとつ軋み、折れる。内臓は悲鳴を上げ、熱と寒さのあいだを彷徨った。苦しみや痛みの感覚ですら、もはやどこか他人事のようだった。


「がふっ」


 喉の奥から血の塊がせり上がり、吐き出した。


 ドロリと耳から赤黒い液体が流れ出す。


(ダメだ……持たない。このままじゃ――)


 地に伏しながら、助けを求めるように空中へと手を伸ばす。

 

 その瞬間だった。

 指先に、パリッとした刺激が走った。


 稲光の残滓――俺の魔力の残り香が、まだ空気の中に刻まれていたのだ。


 〝雷〟は、まだ俺の中から消えていなかった。


「…………まだだ」


 喉を焼かれた声が、わずかに漏れる。


「……まだ終われるかよ!」


 膝をつきながら、呻くように叫ぶ。


「こんなもんで終われるか……!」


 雷が応えるように空間で爆ぜた。


 その瞬間、俺の魔力が共振する。

 稲妻が右腕を駆け上がり、背骨を貫き、心臓を打った。


「――魔力、解放」


 声とともに、宙に刻まれた雷光の紋様が激しく輝いた。


 魔法とは何か。


 それは俺が覚醒者となって、最初に浮かべた疑問だった。


 過去の覚醒者たちが残した数々の文献を読み漁り、自らを犠牲にした実験を重ねた結果、一つの結論に行き着いた。


 魔法とは、魔力と呼ばれる不可思議な力を代償にして、意思を具現化し、世界の法則を変える現象である。



 ―――ならばその代償に、自らの肉体を加えた場合はどうなるだろうか。



 漏れ出た魔力が背後に集まり、巨大な雷の環を創り出した。


 右腕に重みが宿る。

 左胸の奥で、心臓が異なる鼓動を刻み始める。


「【戦式】――雷神降臨ヴォルドラ


 刹那、雷光が俺の全身を貫いた。

 肉体が焼けつくような熱に包まれながら、それでも意識は潰えない。


 魔力の奔流が、常軌を逸した速度で体内を循環し、血管を走り抜けていく。


 視界が、白く、青く、雷光で塗りつぶされた。


 ――戦式。


 これこそが、俺が編み出した固有の魔法戦術だ。

 

 発動した魔法を己が肉体に纏わせることで、この身体そのものを魔法と同一化させている。


 その代償に、この身体は絶えず自らが発動した魔法に焼かれ続けることになるが、そのデメリットを補って余りある攻撃力を手にすることが出来る。


「ふぅー……」

 

 絶えず体内を巡る雷に肉体を焼かれながら、俺は目の前の怪物を睨み据えた。


 たとえ現代に比べれば、その力も能力も、格段に劣っているとはいえ。それでもなお、A級ダンジョンの魔物すら遥かに凌駕する圧力を放っている。


 だからこそ。


 今、この場で、どんな代償を支払ってでも、俺はコイツを殺す。


「未来に続く厄災の芽は、すべてここで狩り尽くす」


 短く宣告し、雷撃を纏ったまま、俺は一歩を踏み出した。


 雷が皮膚を焼き、骨を這い、心臓を貫く。


 それでも、痛みはなかった。むしろ、心が澄み渡っていく。


 まるで、より純粋な〝戦いの意志〟だけが抽出され、稲妻が俺という存在の〝殻〟を打ち砕いていくようだった。


「……残り十秒よ」


「十分だ」


 雷光が奔る。


 背に刻まれた双雷紋が紫電を噴き上げ、地と空を裂くように弾ける。


 踏みしめた岩盤が焼け焦げ、全身を駆け巡る魔力はもはや肉体の器を超えていた。


 視界の先――蛇王サル=ナー=グラが、俺を見ていた。


「お前の〝理〟に、俺は屈しない」


 地を蹴った。


 ――いや、〝雷〟が跳ねた。


 肉体でも魔力でもない。

 ただ、〝雷神の意志〟と同調した結果として、俺は空間を駆けていた。


 目にも映らぬ速さで、蛇王の左顎へと踵を叩き込む。


 咆哮すら許さぬ速度で、鱗が砕けた。


 血と瘴気が閃光の尾を引き、蛇王の顔面がぐらりと傾く。


 すかさず空中で身体を捻り。肘を首筋へ叩き込む。


 稲妻が神経を焼き、蛇王の動きが鈍る。


 もはや、音すら追いつかない。


 俺は全身から雷光を絞り出し、魔力を一点に収束させた。


「お前はここで、歴史から消える」


 大気が、泣くような音を立てる。

 雷の柱が天を貫き、その中心に俺はいた。


「【雷禍・壱式】雷神の落刃サンダーフォール


 一撃。


 神を穿つ刃を、虚無の目に向け――放った。



 静寂の中、光が降りた。



 轟音はなかった。


 ただ、世界が〝割れる〟音だけが響いていた。



 蛇王の巨体が、天を突いたまま崩れ落ちる。


 黒く焦げた鱗が剥がれ、虚無の目が、ゆっくりと濁っていく。


 その眼には、初めて〝理解〟の色が宿っていた。


「―――…っ」


 雷は、もう収まっていた。


 肩で息をしながら、俺は天を見上げる。


 雷光も、霧も、もうなかった。あるのは、静けさと、ただ……自分の鼓動だけだ。


 魔力が、静かに引いていく。


 燃え尽きた稲妻の残響だけが、まだ空間の奥に残っている。


 だが、それもすぐに、音もなく消える。


 ――終わったのだ。


 蛇王は、確かに死んだ。


 地上を呑み込む災厄は、ここで葬られた。


「……!」


 ふいに、肺が燃えるように熱を帯びた。心臓が軋み、全身の細胞が酸素を求めて悲鳴を上げる。立っているのがやっとだった。もはや、力を振り絞る余力など残っていない。


 人の身には、大きすぎた技の反動だ。


 かつてなら、この技を使った直後は身動きすら取れぬほど、身体がボロボロになっていた。


 けれど、今は違った。


 魔物から奪った異能――『肉体再生』が、ゆっくりと俺の肉体を癒し始めていた。


 焼け焦げた内臓と皮膚が、じわじわと回復していくのを感じる。


 そのときだった。ふいに、身体がずしりと重くなる。


「―――…三十秒よ。これ以上の勝手は許さないから、また力を抑えるわ」


 姿を現したテルミナが口を開いた。


 どうやら、約束されていた時間が終わったらしい。


 両手の紋様を見つめながら、俺は小さくため息を吐き出した。


「またこの状態か……。短い自由だったな」


「人聞きが悪いこと言わないでちょうだい。まるで私があなたを捕えてるみたいじゃない」


 どこが違うんだ、と俺はテルミナに半眼を向けた。


 彼女はムッとした顔で「なによ」と返すが、俺は首を横に振り、「何でもない」と口を閉ざした。


 テルミナが言う。


「それより、死体の回収、するんでしょ?」


「ああ、そうだな」


 俺は呟き、崩れた蛇王の亡骸を見やる。


 その死骸へと手を翳した。


「吸収」


 掌から闇があふれ出し、蛇王の亡骸を覆い尽くしていく。


 闇は蠢きながらその全身を包み込み、やがて黒球へと姿を変えた。


 黒球はふわりと宙に浮かび、俺の掌へと吸い込まれる。


「成功したか」


 自分の手を見つめながら、ぽつりと呟く。


 頭上から、微かな崩落音が聞こえてきた。


 今はまだ遠い。けれど、そう長くは保たない。


 いずれ、この空間も完全に崩れ落ちる。


 奪い取った異能を確認する時間も、今はない。


「上に戻ろう。このままじゃ、崩壊に巻き込まれる」


 蛇王の瘴気の残り香が、まだわずかに空間に漂っていた。


 だがそれも、時間が経てばやがて薄れ、消えていく。


 だから、俺は歩き出す。


 どれだけ足元がふらつこうと、この一歩だけは、譲れなかった。

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