第27話 合流

 穴の底は、また違う空気に満ちていた。


 息を吸い込んだ瞬間、肺の奥が凍るような異物に締めつけられる。


 霧はさらに濃く、周囲の距離すら把握できない。足元の感触も曖昧で、ここが本当に「地面」なのかも判然としなかった。


「気をつけろ。ここは……今までよりも、さらにおかしい」


 俺の言葉に、本間と土屋が頷く。


 慎重に歩を進めていると、ふいに霧の奥から金切り声にも似た鳴き声が響いた。



 ぎぎゅぅう――ぎぎ、ぎぃいい!



 それは断続的に、しかし確実に近づいてくる。沈黙を破るように湿った地面を擦る音が重なり、何か巨大なものが迫っていた。


 俺たちは声を潜め、慎重に岩陰から様子を窺った。


 そして、その先に見えた姿に誰もが息を呑んだ。


 霧の帳が割れたその向こう。黒紫の花々の中に、透花がいた。


 肩を揺らし、必死に逃げようとしている。足取りは重く、すでに限界は近い。彼女のすぐ背後には、あの巨大ムカデが迫っていた。


 鈍く光る甲殻、蛇のようにうねる胴体。無数の脚が地面を這い、牙を剥いた顎が今まさに彼女を喰らわんとしていた。


「――氷室!」


 叫びと同時に、俺は地を蹴った。肉体強化フィジカルブーストで脚力を高め、視界が歪むほどの速度で距離を詰める。


 振り返った透花の瞳に驚愕が浮かぶ。だがその意味を問う暇はない。ムカデの顎が透花の頭上に迫っている。


 その瞬間、俺は彼女を抱きかかえるようにして飛び込んだ。


 刹那、牙が空を裂く音が耳元を掠める。


「ぐっ……!」


 背を丸めて受け身を取り、地を転がる。巻き込まれた衝撃に肺を叩かれながらも、なんとか透花を庇いきった。


 すぐさま背後から本間の怒号が飛ぶ。


「下がれ、赤坂ッ!」


 その声と同時に土屋の放った短剣が霧を裂き、ムカデの眼をかすめて突き刺さる。唸るような声とともに、ムカデの動きが一瞬鈍った。


 その隙を逃さず、本間が巨体を駆ってムカデの側面へと斬りかかる。負傷した脚を引きずりながらも、渾身の一撃が甲殻に深くめり込んだ。


「赤坂さん、こっちへ!」


 土屋の呼びかけに応じ、俺は透花の肩を抱えながら退避する。


 透花の顔は蒼白だったが、意識はあった。頼るように握りしめる剣は半ばで折れ、衣服は泥と血に汚れ、その背には無数の引っかき傷が出来ている。


 透花が震える手で、俺の袖を掴んできた。


「み、みなさん……なんで、ここに……?」


「お前を助けに決まってんだろ」


 短く返し、俺は彼女を背後の安全地帯へと運んだ。


 本間と土屋が交互に前線を支え、巨大ムカデの動きを抑えている。だが、彼らにも徐々に限界の色が見え始めていた。


(このままじゃ、持たない)


 霧と瘴気に包まれたこの異界で、俺たちは限界の縁に立たされている。俺は透花を振り返り、言った。


「氷室っ! 前に渡していた杖があるだろ! それを使うんだ!」


「つ、杖? これのことですか……?」


 戸惑いながら透花が懐から取り出したのは、以前渡しておいた『ゴブリンシャーマンの杖』だった。


「ああ、それだ! 魔力を込めれば、炎の術式が起動する!」


「で、でも私……魔法なんて……」


「大丈夫だ。起動は俺が導く。お前はただ、魔力を込めるだけでいい」


 迷いをたたえた瞳を、俺はまっすぐに見返した。


「お前がここで立たなきゃ、本間と土屋がやられる。あいつらを助けるんだ。できるか?」


 透花は息を呑み、震えながらも頷いた。そして、杖を強く握りしめる。


「……はい」


 小さく、だが確かな声だった。


「杖を構えろ」


 俺が杖に触れると、木肌に走る紅い紋様が淡く光り始めた。何かが眠りから目覚めるように、その光は強まっていく。


「狙うのは顔面。魔力を杖に集めろ。叫べ――」


「――火炎弾ファイアボールッ!」


 叫びとともに、杖の先端から奔流のような炎が噴き出した。


 濃密な霧を焼き払い、瘴気を撥ね除けるかのような熱が奔る。直撃した炎がムカデの顔面を包み、鈍い唸りとともに巨体がのたうった。甲殻が黒く焦げ、顎の片側が焼け剥がれる。


「きぎゅうううッ!」


 魔物の咆哮が洞窟内に木霊した。本間がすかさず剣を引き抜いて後退する。土屋も息を整え、透花の隣に立った。


「効いてるぞ! もう一発いけるか、氷室!」


「や、やってみます!」


 再び杖の先端から奔流のような炎が迸る。轟音と共に空気が震え、霧が一気に吹き飛んだ。灼熱の火線が巨大ムカデの頭部を直撃し、甲殻が弾ける。


 魔物は深い唸りを残し、奥へと後退した。霧の帳に溶けるように姿を消し、再び静寂が戻ってくる。


 死んではいない。単に深部へ戻っただけだ。

 それでも、今はかろうじて安全を確保することが出来た。


 全員が、荒い呼吸を吐いていた。


 土屋は壁際に腰を下ろし、脱臼した腕を抱えながら膝を揺らしている。本間も右脚を引きずったまま、岩に背を預けるようにして座り込んでいた。その口元には、かすかに苦笑めいたものが浮かんでいる。


 透花は俺の隣にいた。土塗れになった制服、煤けた頬。けれど、その瞳は先ほどまでの怯えを脱ぎ捨て、わずかに力を取り戻していた。


 静けさが霧とともに周囲を包み込む。ほんの短い間だったが、それはまるで世界が呼吸を止めているかのような、緊張と弛緩の入り混じった沈黙だった。


「……助けてくれて、ありがとうございます」


 ぽつりと透花が言った。誰に向けての言葉かは分からない。おそらく、全員へ。そして、そのどれよりも強く、自分自身へ。


 その声に、本間が小さく目を伏せた。


「無事で良かったよ……本当に」


 かすれた低い声だった。


 俺はふと、本間の表情に目をやる。以前の彼なら、透花に無意識の拒絶を見せていたはずだ。だが今、彼の視線には静かな後悔の色が滲んでいた。


「なあ……氷室」


 俺の呼びかけに、透花が顔を上げる。


「さっき落ちる前に、何か言おうとしてただろ。あれ、なんだったんだ?」


 透花は一瞬、目を見開き、それから静かに目を伏せる。


「『ごめんなさい』って、言おうとしたんだと思います」


「謝ることなんてないだろ。お前は」


「……そうだな。お前は、悪くない」


 俺の言葉に、被せるように本間が呟いた。


「悪いのは全部……俺だ」


 その瞬間、空気が静まり返った。霧の中、本間はじっと透花を見つめていた。言葉を継ぐかと思ったが、彼は黙したままだ。


 その沈黙の中で、空気が――変わった。


 胸の奥がざわつく。耳を圧するような異様な感覚が広がる。


「っ!?」


 土屋が息を呑み、口元に手を添える。


「……今、空気が動きましたよね?」


「ああ。感じるか?」


 俺は立ち上がり、周囲を見渡す。霧が蠢いていた。奥から何かが這うように、滑るように霧そのものを裂きながら、迫ってくる。


 本間が唐突に立ち上がる。引きずる右脚を踏ん張り、苦痛を堪えながら顔を上げた。その表情には、明らかな怯えが浮かんでいた。


「……逃げるぞ」


「何?」


「早くしろッ! もうヤツがそこまで来てる!」


 本間の口調は低いが、その声の底には、俺が今まで聞いたことのない種類の恐怖が混ざっていた。


 次の瞬間――。


 深層の霧の奥から、低くうねるような〝声〟が響いてきた。




 ――――――ィィィィ……




 最初は音とは思えなかった。


 風か、あるいは岩盤が軋む音かと思った。だが違う。あれは〝声〟だ。耳ではなく骨の髄に届く、異様な振動。


 言葉にも咆哮にも似つかない何かの〝囁き〟が、世界を満たしていく。


 透花は顔を強張らせたまま動けなくなっていた。土屋が呻き声を漏らし、耳を塞ぐ。本間だけが息を詰めたまま、深い霧の先を睨んでいた。


 ぞわりと、全身の毛穴が逆立つ。


 霧の奥から、何かが這ってくる気配がする。


 それは魔物の放つ気配ではなかった。音も、匂いも、温度もない。ただ〝存在している〟という事実だけが、肌の裏をじわじわと這い上がってくる。


「伏せろッ!」


 次の瞬間、空間が爆ぜた。


 霧が吹き飛び、空気が裂け、視界のすべてが黒に染まる。土煙が舞い、衝撃とうめき声が感覚を塗りつぶし、意識が一瞬遠のいた。それでも、俺は何とか踏みとどまった。


 見上げた視界の端に、うねる影が映る。


 巨大な身体が、蛇のようにのたうちながらこちらへ迫ってきていた。


 本間が、崩れた瓦礫の陰からゆっくりと立ち上がる。


 その顔に浮かぶ表情は、恐怖でも驚愕でもなかった。



 ――すべてを受け入れてしまった者の、静かな絶望だった。



「遅かった……」


 本間が呟く。



 彼の視線の先、そこにいたのは、巨大な蛇だった。


 ……いや、蛇〝のような何か〟だった。

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