第13章 リタイア紳士、雨どいのヒーロー
第97話 目的のない旅人
桜の花びらが舞い散り、山々が一斉に鮮やかな緑色に染まる季節。
俺のダンジョン民宿にも、活動的で少しだけ浮かれたような初夏の空気が満ち始めていた。
庭の家庭菜園では、夏野菜の苗がぐんぐんと背を伸ばし、ダンジョンの入り口付近では、冬眠から目覚めたばかりの虫たちが忙しそうに飛び交っている。
そんな穏やかなある日、一台の年季の入ったセダンがゆっくりと民宿の前に停まった。
予約者名は「吉岡 浩介」。
特に備考欄には何も書かれておらず、俺とリサは、ごく普通の観光客なのだろうと、いつものように玄関で出迎えた。
車から降りてきたのは、小綺麗なポロシャツにスラックスという、品が良い身なりの男性だった。歳の頃は、五十代半ばだろうか。
白髪交じりの髪をきちんと整え、物静かで、どこか知的な雰囲気を漂わせている。
だが、その表情には、あまり感情というものが感じられなかった。
楽しい旅行への期待感もなければ、かといって、何か悩みを抱えているような陰もない。
ただ、どこか遠くを見ているような、ぼんやりとした空虚さが、その瞳の奥に宿っているように見えた。
「……吉岡です。予約していた」
彼は必要最低限の言葉だけを口にし、軽く会釈をした。その声には、抑揚というものがほとんどなかった。
「ようこそお越しくださいました! 田中です、こちらリサです」
俺とリサがいつものように明るく挨拶をしても、彼は「はあ」と気の抜けた返事をするだけ。
玄関に現れたプルやキノコうさぎの姿にも一瞬だけ眉を動かしたが特に驚くでもなく、興味も示さず、さっさと宿の中へと上がってしまった。
客室に案内しても、彼は窓の外の景色を眺めるでもなく、ただ部屋の真ん中にぽつんと立ち尽くしている。
俺が「何かご不明な点はありますか?」と尋ねても、「別に」と短く答えるだけだった。
まるで、感情というスイッチを、どこかに置き忘れてきてしまったかのようだ。
俺とリサは、顔を見合わせた。
これは、今までで一番、掴みどころのないお客さんかもしれない。
その日の午後、吉岡さんは縁側に置かれた古いロッキングチェアに腰掛け、ただひたすらに、ぼんやりと庭を眺めて過ごしていた。
本を読むでもなく、音楽を聴くでもない。本当に、ただ、そこにいるだけ。
時折、モンスターたちが彼の周りをうろちょろしても、彼は全く意に介さない様子だった。
リサが心配そうに俺に耳打ちする。
「ご主人、あのお客さん、大丈夫なんでしょうか……。なんだか、生気がないというか……」
「さあな。まあ、無理に構うこともないだろう。ああいう風に静かに過ごしたい人もいるさ」
だが、俺も内心では少しだけ気になっていた。彼の、あの空っぽな瞳。まるで人生という名の長いマラソンを走り終えて、燃え尽きてしまったランナーのようにも見えたからだ。
夕食の時間になっても、彼の様子は変わらなかった。
俺が心を込めて作った、採れたての山菜の天ぷらや新鮮な刺身を並べても、「いただきます」と小さく呟き、黙々と箸を動かすだけ。「美味しい」とも、「まずい」とも言わない。
ただ、出されたものを機械的に口に運んでいるように見えた。
食後、俺が片付けをしていると、彼は、ふらりと台所にやってきた。
何か言いたいことでもあるのかと、俺が身構えていると、彼は意外な言葉を口にした。
「……明日は、雨、らしいな」
「え? ああ、天気予報では、そうみたいですね」
「あの縁側の上の雨どい……。少し歪んでいないか?」
彼は庭を眺めている間に、そんな細かいところに気づいていたらしい。
確かに去年の台風の影響で一部が少しだけ曲がってしまっているのだ。
「ええ、まあ。でも、特に問題はないですよ。ちゃんと雨水は流れますから」
俺がそう答えると、彼は、ふうん、とだけ言って、それ以上何も言わずに自分の部屋へと戻っていった。
ただ、それだけの短い会話。
だが俺は、初めて彼の瞳の中にほんのわずかな興味とも、あるいは職業病のようなものともつかない微かな光が宿ったのを見逃さなかった。
もしかしたらこの人は、ただ退屈しているだけではなく、何か自分の知識や経験を活かせる「役割」を無意識のうちに探しているのかもしれない。
そんな予感がしたのだ。
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