第9話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 4


 丸の内。八つ目科学本社役員会議室。


 重厚な会議室の空気が、淀んでいた。


 長机に並ぶ役員たちの顔は硬直し、誰もが口を閉ざしていた。


 その中央で、紋田人志社長は汗ばんだ額に手を当て、赤らんだ顔を歪めて怒鳴った。


「泡渕!お前が指示して、培養器の電源を落とし、わけのわからん器械を搬入させたのは分かってる。お前は専務ごときのくせに、勝手に仕切りやがって! 会社は俺が舵を取ってるんだ!」


 拳を机に叩きつけ、グラスが震える。


 だが、その声には空虚な響きしかなかった。


 専務・泡渕は椅子に深く腰をかけ、静かに眼鏡を押し上げた。


「……社長。舵取りというなら、まず説明していただきたいですね。あなたが六本木の秘密賭博場で何をして、どこの連中にいくら持っていかれたのかを」


 会議室にざわめきが走る。


 紋田の顔色が一気に変わった。


「な、なにを言う! 俺は会社の金を守るために──」


「守る?」


 泡渕の声は低く、だが鋭く突き刺さった。


「事実はこうだ。あなたは中国人チャイニーズの経営する秘密賭博場で、ポーカーで、百億円を巻き上げられた。自分の懐では賄えず、会社の金に手をつけた。それが真実だよな」


 沈黙が落ちた。


 役員たちの視線が一斉に紋田に集まる。


 誰も言葉を発しない。


 紋田の唇が震え、汗が首筋を伝った。


「ここで、それをいうか?……奴らに逆らえば殺されるんだ! だから仕方なかったんだ!俺は、経営の一部を……運営に関して奴らの介入を……認めただけだ!」


 その告白に、会議室は凍りついた。


 会社の心臓部が、裏社会に差し出された瞬間だった。


 泡渕は立ち上がり、冷ややかに言い放った。


「八つ目科学は、あなた一人の会社ではない。命乞いのために工場を売り渡す経営者に、未来は託せない」


 紋田は椅子に沈み込み、言葉を失った。


 その背中には、社長の威厳も、創業家の誇りも残ってはいなかった。


 ただ一人の賭博狂が、勝負に敗れて、闇に呑まれた哀れな姿がそこにあった。

   *

 その夜、品川埠頭、湾岸倉庫街の一角。


 八つ目科学の専務・泡渕は、黒塗りの車から降り立った。


 潮風に混じる錆と油の匂い。


 倉庫の奥に設えられた仮設の会議室には、赤い絨毯が敷かれ、異様な静けさが漂っていた。


 その中央に、葉烈峰が座っていた。


 半グレ組織チャイニーズマフィア恵比寿舞龍権えびすブルゴンの最高幹部。


 鋭い目は氷のように冷たく、煙草の紫煙がその顔を覆っていた。


 泡渕は深く頭を下げ、重い声で切り出した。


「……社長は貴方の賭場で骨抜きにされました。もはや八つ目科学の屋台骨は揺らいでいる。私が舵を取らねば、この会社は沈む」


 葉烈峰は笑わなかった。


 灰を落とし、静かに言った。


「沈むか浮かぶかなど、どうでもいい。我々が欲しいのは“培養器”だ。薬を作るか、毒を作るか──それを決めるのは俺たちだ」


 泡渕の額に汗が浮いた。


「……もし、我が社の工場を提供すれば?」


 葉烈峰の目が光った。


「お前に黄金の未来を保証してやる。金も女も、思うままだ。


 ただし、背いた瞬間、お前も家族も、影形はなくなる」


 言葉は低かったが、刃のように鋭かった。


 泡渕は唇を噛み、やがてゆっくりと頷いた。


「……八つ目科学の全設備、あなた方の指示に従わせます」


 その瞬間、葉烈峰は初めて口角をわずかに吊り上げた。


「契約成立だ。お前は今日から“仲間”だ」


 二人の握手が交わされた。


 だがそれは友情の証ではなく、破滅への刻印だった。


 生ぬるい湾岸の風が鉄骨を揺らす。


 倉庫の奥で機械の低い唸りが響き始める。


 その音は、八つ目科学が薬の殿堂から堕ち、死を育む闇の工場へ変わる胎動だった。



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