第7話  医療崩壊都市・トキソイドクライシス 2

 理性が、警鐘を鳴らしていた。


 踏み込めば、おそらく道を外れる。


 知ってはならない者に秘密を漏らすことは、自らの立場だけでなく会社全体を破滅に追い込む行為でもある。


 だが、その理性を押し流すものがあった。


 女の吐息。


 甘いアルコールの香りを帯び、熱を孕んだそれが首筋をかすめた瞬間、警戒心は霧のように溶けて消えた。


 女の指先がネクタイをなぞり、爪の硬さ、肌の柔らかさが入り混じって伝わる。


 その感触は、権力と秘密を抱え続けてきた男の孤独な神経を直撃した。


 ──人は、強さで武装したままでは生きられない。


 欲望に堕ちる弱さこそが、生きている証であり、人間の本質でもある。


 泡渕は、己の理性が剥がれ落ちていくのを感じた。


 それは理性の敗北ではなく、むしろ甘美な解放。


 日々の重責から解き放たれることに、歓びを感じていた。


 そして彼は知った。


 この女に秘密を委ねた瞬間から、自分の運命もまた別の手に握られることを──。


   *  


 シーツの皺は乱れ、夜の熱がまだ残っていた。


 六本木の高級ホテル、グレート・ワイアット、スイーツルーム。


 窓の外には摩天楼の光が滲み、ガラスの向こうの街は眠らない。


 泡渕専務はシャツのボタンを外したまま、肩で息をついていた。


 女は裸足のまま、ベッドサイドのテーブルに置かれた泡渕のスマートフォンを手に取る。


「ねえ……コレ、ナニ?」


 微笑みながらスクリーンを撫でる指先は、蛇の舌のように艶やかで、どこか冷たい。


 泡渕の目が一瞬鋭さを取り戻した。


 そこには八つ目科学の製造ラインのスケジュール、原料の搬入日、そして培養室の稼働計画が映し出されていた。


「……見ていいものじゃない」


 声は掠れ、抗議の力はなかった。


 女は身を寄せ、熱を帯びた素肌を泡渕に絡める。


「ワタシね、秘密を持ってる男が……一番好き」


 吐息と共に囁かれるその言葉は、快楽ではなく呪縛だった。


 泡渕の脳裏に、冷たい警告が響いた。


 ──ここで引き返せばまだ間に合う。


 だが、女の瞳は彼の躊躇を見抜き、唇が再び首筋に落ちた瞬間、その警告は完全に断ち切られた。


「専務サン……ワタシのために教えて」


 その声に抗う術はなかった。


 欲望と孤独が結託し、彼の意思を粉砕した。


 泡渕は目を閉じた。


 その瞬間、指先がスマートフォンのロックを外す音が静かに響いた。


 女の表情にはもはや媚びはなく、冷ややかな笑みが浮かんでいた。


 ベッドは愛を交わす場ではなく、男を絡め取る罠の舞台だった。


 そして泡渕は、その罠に気づきながらも甘んじて堕ちていった。


   *


 女は唇に笑みを浮かべ、囁く。


「専務、落ちました。八つ目の内部資料、手に入りました。培養培養スケジュール、施設工場の概要、全部」


 受話器の向こうで、短い沈黙があった。


 やがて、煙草の火を吸い込む音と共に、男の声が低く響いた。


「よくやった。これで第一段階は終わりだ」


 その声の主は、恵比寿舞龍権えびすブルゴン幹部・葉烈峰。


 香港マフィア14Kとのパイプを持ち、日本国内の薬物ルートを牛耳る男だった。


「次は工場だ。培養システム……電源を断て。数時間で槽は死ぬ。その混乱で俺たちの"荷"を紛れ込ませる」


 女は目を細めた。


「"荷"……M計画の?」


「そうだ。毒も薬も、値がつけば同じ商品だ」


 女は微かに笑った。


「了解。専務はもう逆らえません。彼はワタシの人形です」


 通話が切れる。


 女はスマホを握りしめ、振り返った。


 ベッドの上の泡渕はまだ夢の中にいた。


 その顔には、闇の組織の歯車として使い潰される運命を知る余地もない。


 外の街は眩しく、狂ったように光っていた。


 だが、その光の下で、確実に死を撒き散らす計画が動き出していた。








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