第5話 伝説の神醫 3

 湿気を吸いきった手術室のコンクリ床には、血の小さな円が広がっていた。


 冷却装置が軋みをあげ、外界と断絶された東京湾岸の埠頭に立つ倉庫地下室・無明房には、潮の匂いと鉄の匂いが混ざる。


 その奥、無影灯の下で、王鎮魂は無言で顕微鏡に目を落としていた。


 切開は、すでに終わっている。


 外陰部、陰茎海綿体、尿道、陰嚢皮膚、精索、内鼠径輪……"情け"を残す余裕はなかった。


 ただただ、王の手は、悼むように動いた。


「0.8ミリ。血管壁は薄い。舐めれば裂けるほどだ……だが舐める奴はいねえ」


 低く呟き、助手の若い中国人が頷く。


 0.8ミリの血管を、オーストリア製10-0極細ナイロンでひと針ずつ縫合する。


 針先の角度は35度、深さ0.1ミリ。ひと刺しごとに魂が滲む。


「排泄は生の証だ。出せなきゃ人間じゃねえし!」


 尿道の吻合。


 既存の管に、切り出された組織を差し込む。縫合点は14箇所。漏れは許されない。


 最後に精索の再接続。


 直径1.5ミリの血管に顕微鏡を覗き込み、神経を焼くような集中が続く。


「この手術に成功はねえ。あるのは"この男に、もう一度"という意志だけだ」


 血が通った。組織が繋がった。


 管が生きた。


 魂はまだ戻らないが、肉体は蘇った。


 王は顕微鏡から目を離すと、煙草に火をつけた。


 患者の顔は、一切、見ない。再びこの寝台に新たな"病体"が届くまで、血と沈黙に戻るだけだ。


 男の名は──唐 明徳。


 巨大新興宗教団体『金剛烈心会』の幹部だった。

 資金運用の名目で教団の金を動かし、表では慈善事業、裏では資産の横領とマネーロンダリング。


 だが派閥抗争は唐を襲った。


 密室での尋問、拷問。


 生きたまま性器を切断され、屈辱のままに海辺に捨てられた。


 警察は動かない。教団の外郭団体には与党の議員と警察OBが食い込み、事件は闇に消される。


 唐を拾ったのは、教団の裏で動く敵派閥の手先だった。


 彼らは唐を"再び立たせる"ため、王鎮魂を呼び出した。


 生き延びた唐は、やがて教団内で勢力を盛り返し、数年後には巨大な利権ルートにまで手を伸ばすことになるだろう。


 夜、地下室の隅に、小柄な少年が立っていた。


 阿羅業神醫、当時十二歳。


 育ての親である王の命で、器材の手入れや糸の準備を手伝っていた。


「見ろ、カムイ。これは切るだけじゃない。生をつなぐんだ」


 メスを無影灯の明かりにかざす王の声は、氷のように冷たく、しかし刃物のように研ぎ澄まされた切れ味を有していた。


 顕微鏡の下で動く針先。


 そこに宿る集中と執念は、少年の瞳に焼きついた。


 肉体の修復は、それ自体は、魂の救済ではない。


 だが、肉体を元に戻さなければ魂は戻れない──王はそう信じていた。


 何百例にものぼる闇手術が、阿羅業神醫に神の業を与えたのだった。

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