第3話 伝説の神醫 1
土曜の昼下がり──大久保駅前は、人の熱と匂いでむせ返っていた。
焼き肉屋の煙と、露店の呼び込み、雑踏のざわめきが入り混じる。
その喧騒を、甲高い金属音が断ち割った。
──キィンッ。
次の瞬間、女性の悲鳴が空気を裂いた。
振り向いた群衆の視界に飛び込んできたのは、血走った目の中年男。
手に握られた刃物が、白昼の陽光を受けてぎらつく。
刃はためらいなく
群衆が波のように割れ、押し合い、叫び、誰もが自分だけを守ろうと四方に逃げる。
襲撃者がその波を裂きながら、次々と逃げ惑う群衆の肩口や腹部を切り裂いていく。
「やめろッ!」と叫ぶ声はかき消され、
一人の若い女性が人混みの中で立ちすくんでいた。
腹は大きく膨らみ、臨月──その中央に、銀色の刃が深々と突き立った。
時が止まったように見えた。
次の瞬間、真紅の液が腹部から噴き出し、母親の口から押し殺した悲鳴が漏れる。
膝が砕け、コンクリートに倒れた体を、周囲の誰も抱き上げられない。
救急車のサイレンが、街の喧噪を引き裂きながら近づいてくる。
希望ではなく、二つの命に残された時間の限界を告げる鐘だった。
搬送先──埼京医大附属病院。
死と生の境界が、そこに押し寄せていた。
サイレンが喉を裂くように鳴り、暗闇の街を貫く。
胎児心音がかろうじて弱弱しく波打っている。
心拍数を示すモニターの数字は坂を転げ落ちるように下がっていた。
「遅い…間に合わねえぞ」
運転席から救急隊員が呻く。
母体の血圧が崩れ、赤い警告灯が点滅する。
呼吸音は浅く速く、脈は激しく揺らいでいた。
――病院到着。
自動ドアが開いた瞬間、冷たい消毒液の匂いと人工灯の白が押し寄せる。
担架が走る。
廊下が風を切る。
助産師が無言で計測器のコードを握りしめ、もう一人が酸素マスクを妊婦の口元に押し当てる。
エレベーターを待つ時間も惜しい。非常階段を駆け上がる。
「心音、さらに低下!」
看護師の悲鳴が響く。
「手術室へ直行だ。準備しろ。外傷処置と緊急帝切――時間がない!」
「胎児の心拍数低下!母体も血圧落ちてます!」
産科病棟はパニックに陥っていた。
産科の救急室はすべて埋まっており、担当医達は分娩室とオペ室を往復して汗を噴き出している。
「外傷の縫合もあるから、外科で……いや、外科も、もう人がいない!」
指揮系統は崩壊寸前だった。
そのとき──。
「……何の騒ぎね?」
ふらり、外勤帰り、徹夜勤明けの
白衣は皺だらけ、目の下には深い隈。
だが、その眼光は静かに鋭く、周囲の混乱を一瞬で制した。
「俺が切ってやろうか?」
おおっと現場はどよめいた。
幼少時から中国福建省の闇医者、王蓮江の元でメスさばきをしこまれたという、伝説の手練れの手は、誰も止められない。
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