あかなめ4
八月。町は蝉の声で割れるように騒がしく、空には白い雲がせり上がっていた。
だが、宮崎の耳には、もう蝉の声は届いていなかった。
ぺぇちゃり。ぺぇちゃりぃ。
昼も夜も、絶え間なくその舌音が響いていた。
万引きも、物を壊すことも、もはや何の満足も与えない。
声は飢えていた。
「人から奪え。血を、息を、奪え」
その日、彼は町外れの廃れた公園にいた。
ブランコは錆びつき、砂場は雑草に覆われている。
ベンチには一人の老人が腰をかけ、うつむいて居眠りをしていた。
蝉時雨の中、宮崎は無意識に歩み寄った。
ポケットの中で、盗んだカッターナイフが汗に濡れて重い。
なぜそれを持ち歩いているのか、自分でも分からない。だが舌音がそれを握らせていた。
ぺぇちゃりぃ。
老人の喉が上下に動く。
呼吸の音が、舌の湿音に重なって響く。
宮崎の指先が震えた。
「今だ」
声が命じる。
ナイフが、するりと抜けた。
気づけば宮崎の手は、老人の肩を掴んでいた。
刃が、皮膚に触れる。
その瞬間、耳の奥で舌が歓喜に跳ねた。
老人の呻き声が、夏の空に吸い込まれた。
赤く熱いものが溢れ出し、宮崎の視界を染めた。
それは湯船で見た赤黒い濁流と同じだった。
宮崎は息を荒げながら、その場に崩れ落ちた。
全身を這い回る舌の幻覚。肩を舐め、腕を舐め、頬を舐め、体中を味わい尽くす。
「これだ、これでいい」
耳の奥で声が震えていた。
「舌を切れ」
やがて。
老人の体はただ沈黙する肉体になると、舌を切り持ち帰った。
公園には蝉の声だけが戻り、風が雑草を揺らしていた。
宮崎は震えながらベンチから離れた。
足元に散った赤が、地面の砂にじんわりと吸い込まれていく。
その色はなぜか、美しいと思えた。
家へ帰る途中、田んぼの広がる道を歩いた。
夕暮れ、稲の葉の間を風が渡り、金色の光が水面を揺らす。
遠くで子供たちの笑い声が響いている。
世界はあまりにも穏やかで、美しかった。
その美しさを、なぜ自分だけが共有できないのだろう。
宮崎は立ち止まり、掌を見つめた。
まだ震えが残っている。
耳の奥では、舌が満足そうにぺちゃぺちゃと音を立てていた。
夜。風呂場。
湯に沈むと、無数の舌が宮崎を包み込んだ。
肩を、胸を、股を、首筋を、全てを舐め尽くす。
湯は赤く濁り、泡立ち、呼吸を奪う。
「よくやった」
「いい舌だ」
声は甘く囁いた。
宮崎は目を閉じ、笑いながら湯の中に沈んでいった。
頬を伝う泡が、まるで舌先のように感じられた。
そのとき、彼はもう恐怖を抱いてはいなかった。
むしろ、その興奮と快楽に身を委ねていた。
翌朝。
町は蝉の声で満ち、誰も昨日の出来事を知らなかった。
老人のことも、血のことも、舌の音も。
ただ宮崎だけが、静かな笑みを浮かべて歩いていた。
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