夜明けと迫る影
夜が白み始めた。
森を覆っていた霧がゆっくりと退き、地平線には淡い朱が広がる。
夜露に濡れた草葉が光を弾き、吐く息はまだ白く漂っていた。
サリオンは腰袋を押さえた。
前夜に託された紹介状の感触を確かめると、視線を仲間へ巡らせる。
ミラの瞳には昨夜までの陰りが薄れ、わずかに光が宿っていた。
頬をかく彼女のぎこちない笑みに、サリオンは胸の奥で小さく安堵を刻んだ。
――そう、それでいいのよ。
グラフがシャルフに聞いた道順を思い返しながら、地図を広げ、低く告げる。
「北東に進む。青き谷を抜け、緑の森に入ればやがて道は消える。
だが、小高い丘に出れば村は近い。頼れるのはそれだけだ」
「まぁ仕方ないわね」
サリオンが肩をすくめると、グランが鼻で笑った。
「道なんざ無くてもいい! 剣があれば進める!」
「……豪胆なのは結構だけど、森ん中で迷子になったら笑えないわよ」
サリオンの軽口に、ミラが苦笑をもらす。
セトは弓を肩に掛け直し、黙って頷いた。
アマンダは小刀を確かめ、革袋に触れた指先を無理に離した。
こうして一行は村を後にした。
石垣を抜けると、霧の奥に家々の屋根が霞む。
戸口に立つ人々が手を振る姿があったが、誰も声を出さず、ただ歩を前へと進めた。
◇ ◇ ◇
数日が過ぎた。
青き谷を越える道は平穏だった。
川沿いには野花が揺れ、鳥が水面を渡って飛び交う。
昼は陽光が温かく、夜は星が澄んでいた。
だが緑の森に入ると、景色は一変した。
濃い木々が頭上を覆い、昼なお薄暗い。
踏み固められていた道は次第に細くなり、やがて湿った土の獣道に変わって消えた。
苔むした倒木が道を塞ぎ、枝葉が行く手を乱す。
足を進めるたびに、どこかで枝が折れる音がして、空気はひどく重苦しかった。
やがて木立の先がわずかに明るくなり、視界が開けた。
一行の前に、小さな湖がぽつりと姿を現す。
静かな水面に森の影がゆらめき、岸辺には古びた渡し板や朽ちた杭が残されている。
道はこの湖のほとりで唐突に消え、草と泥に覆われて痕跡すらわからなくなっていた。
ここが“道の終わり”なのだと、誰もが無言で理解した。
湖面から立ち上る朝霧と、時折響く鳥の声だけが、異様な静けさを際立たせる。
「……道が、本当に無くなったわね」
ミラが不安げに呟く。
そしてしばらく歩いていると、木々の合間から見えたものは…
「
小高い丘だ。そこまで行けば村は近い」
グラフの声は揺るがないが、誰も気を抜いてはいなかった。
◇ ◇ ◇
森を抜けると、丘に差しかかった。
視界が開け、霧の切れ間から谷が広がった瞬間、一行は息を呑む。
眼下には、まるで地表がうごめいているかのような光景が広がっていた。
黒褐色の毛並みが重なり、蠢く無数のコボルトの群れが谷を埋め尽くしている。
ただの数の暴力ではない。
その中心部や端には、常の個体とは明らかに違う、背丈がひとまわり大きな「ハイコボルト」たちが牙をむいている。
青白い瞳に光を宿し、分厚い棍棒や金属の槍を肩に担ぎ、体表には傷跡や縄状の筋肉が浮き出ていた。
その存在感は、遠目にも群れ全体の士気や凶暴性を押し上げているのがわかる。
高い位置から見下ろしているはずなのに、思わず一歩後ずさりしそうになるような威圧感。
コボルトの群れは群れ全体がゆるやかに波打ち、時折、ハイコボルトの咆哮が轟いていた。
それに呼応するように、コボルトたちが一斉に武器を天に掲げ、獲物を探して鼻を鳴らしている。
わずかな風が谷を通り抜けるたび、血と獣臭と泥の匂いが丘の上にまで届く。
一行は誰も言葉を発せない。
戦士のグランですら、その圧倒的な数と異様な空気に、ほんの一瞬だけ身体をこわばらせた。
「……百以上か。正面からでは厳しいな」
グラフが短く呟く。
「ふん、百や二百、まとめてかかってこいってんだ!」
グランは拳を鳴らし、嬉しそうににやりと笑った。
「ちょ、ちょっと……笑えないってば」
ミラが震え声をあげる。
セトは反射的に矢筒に手を伸ばすが、その手がかすかに震えているのを誰も咎めなかった。
アマンダも口をつぐんだまま、革袋をきつく握りしめている。
サリオンの目だけが冷静に谷底とコボルトの動きを観察し、わずかに息を詰めていた。
丘の上でしばし時間が止まったような感覚。
その瞬間、矢羽の唸りが谷を裂いた。
鋭い矢が次々とコボルトを貫き、群れの先頭が血を撒き散らして倒れる。
咆哮は悲鳴に変わり、列は乱れ、混乱が広がった。
最初に矢を受けて倒れたのは、群れの前にいたハイコボルトだった。
矢が深々と胸板に突き刺さり、そのまま巨体が地面に崩れ落ちる。
だが他のハイコボルトが吠え、すぐに隊列を組み直す。
コボルトたちもパニックになりつつも、武器を手に吠え声を上げ、谷全体が地響きのような怒号に包まれる。
一行はその光景に、言葉を失ったままただ立ち尽くしていた。
目の前で展開する“戦場”が、これまでの小競り合いや村の戦闘とは次元が違うことを、全員が肌で感じていた。
矢はしばらく降り注いだが、やがて途絶える。
霧が揺れ、次の瞬間、数人の影が群れへ斬り込んだ。
剣が閃き、血が霧に散る。
矢で崩れた陣形をさらに切り裂き、影たちは嵐のようにコボルトを薙ぎ払った。
その戦いぶりは圧倒的で、目を奪われるほかなかった。
セトは弓を構えかけて止め、目を細めた。
「……俺じゃない。誰かが先に撃ってる」
「……何者よ、あれは」
サリオンが呟いた。
「俺たち以外に、こんな奴らが……」
グランが低く息を漏らし、大剣を握る手に力を込めた。
その目は畏怖よりも、未知の戦いへの昂ぶりに近い。
「もしかして……村が近い?」
セトが戸惑いを混じらせて声を漏らす。
確証はなくとも、その直感が一行の胸に重く響いた。
誰かが息を呑む音がした。
「……あれが、生き残った戦士たちの村の、戦士たちなのか?」
誰ともなく、ぽつりと声が漏れる。
サリオンがシャルフから聞かされた言葉を思い出す。
「村人全員が戦闘訓練を受けてるって、シャルフが言ってたわ……」
その一言に、全員が再び谷の戦場を見下ろした。
グラフが小さく、ほとんど独り言のように呟く。
「……あれが“圧倒的な強さ”ってやつか」
丘を吹き抜ける風が冷たく頬を打ち、一行はただ黙って異様な光景を見守った。
不安と驚愕が胸に重く沈む。
戦士の村へ至る道の険しさを、全員が痛感していた。
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