壊れていく音
通信制高校に進学したのは、逃げの一手だった。
全日制に通う気力は残っていなかった。
人の輪の中で“いい子”を演じる余力も、もうなかったから。
家で母に進学の相談をしたとき、「好きにすれば」と言われた。呆れたような、面倒くさそうな声だった。
でも、どこか安心していた自分もいた。
その言葉の中に、“放棄”が混ざっていることに、わたしはすぐ気づいたから。
自由になったはずなのに、息は少しも楽にならなかった。
授業はオンライン、出席は最低限。
昼間はバイトに入った。コンビニ、ファミレス、時々イベントスタッフ。
とにかくお金を稼いで、家にいる時間を減らした。
きちんと毎月家にお金を入れているし、母に文句を言われることはなかった。
夜は、〇〇活。
SNSでやりとりをして、街へ出る。年上の男の人に会って、お金をもらって、体を渡す。
誰にも言えないことだってわかってる。
でも、わたしの心はとうの昔に、自分の体から切り離されていた。
行為の最中、わたしは自分を天井から見下ろしているような気分になる。別人みたいに、無表情で相手の言うことを聞いて、ただ時が過ぎるのを待つ。
終わってお金を受け取って、シャワーを浴びて、服を着て、外に出る。
夜風が少し冷たくて、現実に引き戻される。
だけど、何も感じない。感じたくないのかもしれない。
「壊れてるな」って、自分でも思う。
でも、それを止めてくれる人なんて、どこにもいない。誰かに見つかるわけでも、怒られるわけでもない。
「なかったこと」として、自分の中で消化していくしかなかった。
家に帰れば、母の顔が待っている。
帰宅時間を数分でも過ぎると、無言の圧が部屋に満ちる。
「どこ行ってたの」
「またバイト?ほんとは何してたの?」
「アンタ、最近なんか変」
問い詰めてくるわけじゃない。
でも、その視線の先にはいつも否定がある。
“いい子”でなくなったわたしを、母は受け入れられない。いや、多分、最初から受け入れる気なんてなかった。
リビングを通るたびに、過去のわたしと現在のわたしが比べられている気がした。
中学の頃の写真、賞状、通知表。
母はそれをわざわざ目につくところに飾っている。「昔はこんなに良かったのに」と、無言で言ってくる。
心の奥で、なにかがずっと削れている音がする。カリ、カリ、カリ……
音は小さいけど、確かに響いている。
たぶん、これが「壊れていく音」なんだと思う。
でも、止まらない。止められない。
今さら「普通」になんて戻れない。
次のバイトのシフトを確認して、カレンダーに印をつける。
週末には、また“あの人”と会う予定が入っていた。
名前も、顔も、正直どうでもいい。
何かを期待することはない。ただ、お金と引き換えに時間を渡すだけ。
誰かに見つかりたいわけじゃない。
でも、完全に見捨てられるのも、どこか怖かった。
今のわたしがここにいる理由も、どこに向かってるのかも、もうわからない。
ただ、今日も明日も、同じようにやり過ごすしかない。
疲れていても、眠れなくても、朝になればまた動き出さなきゃいけない。
それが、今の「日常」だった。
夜の道は、昼間よりも静かで、どこか正直だった。
誰にも見られていない気がして、わたしはようやく息ができる。
バイトの終わりは22時。
コンビニでおにぎりとエナジードリンクを買う。本当は、缶コーヒーを飲んで大人なアピールをしたいが幼いころから苦くて苦手だった。
そのまま近道の裏通りを歩いていた。このあたりは人通りも少なく、街灯もまばら。でも、わたしはこういう場所の方が落ち着く。
明るい場所ほど、自分が汚れて見えるから。
イヤホンからは、誰の歌かわからない曲が流れている。歌詞もメロディも、耳を通り過ぎていくだけのノイズ。
感情に触れたくないとき、ちょうどいい。
そのときだった。
ふと、前方に誰かの影が見えた。
道端の自販機の光に照らされて、背中だけがぼんやり浮かび上がっていた。
すれ違うつもりでそのまま歩いたけれど、ふと、その人が顔を上げた。
横顔が光に照らされた瞬間──わたしの時間が、止まった。
……先輩だった。
思わず、立ち止まる。
心臓が一回、変な音を立てた気がした。
「……白石?」
彼がわたしの名前を呼んだ。
声変わりして少し低くなった声。
でも、その響きは、昔と同じ優しさを持っていた。
逃げようか、笑おうか、それとも知らないふりをしようか。一瞬でいろんな選択肢が頭を駆け巡ったのに、身体は動かなかった。
ただ、目が合ったまま、言葉が出てこなかった。
「……久しぶりだね」
先輩がそう言った瞬間、なぜか泣きそうになった。
今まで誰にも気づかれなかったわたしを、誰にも見つけてもらえなかったわたしを、彼の目がまっすぐ見てきた気がして。
わたしの壊れかけた日常に、
ぽつんと、小さな光が落ちてきた気がした。
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