結末:夜明けの空に、鴉は

その夜、トリニティの平原で起きたことは、歴史の正史には、断片的にしか記されていない。

『三国の和平交渉の席で、所属不明のテロリストによる大規模な襲撃事件が発生。バルト公国のレグルス大使、エメナ共和国のアウグストゥス大統領、そしてテリア王国のオルテンシア大使が、同時に暗殺された』と。

そして、そのテロの首謀者として、英雄から一転、大逆賊となった『黒翼の魔王』一条史人と、彼の騎士団の名が、全世界に指名手配された、と。

だが、真実は違った。

史人は、ゲオルグの幻惑魔法と、アランの陽動によって、三国の指導者たちを、殺さずに無力化し、拉致した。

そして、彼らに、選択を突きつけたのだ。

「死ぬか。それとも、全ての権力を放棄し、隠居するか。お前たちの家族の命と共に、選べ」

恐怖と絶望の前に、指導者たちは、後者を選んだ。

こうして、三国を戦争へと駆り立てていた頭脳は、社会的に『死亡』した。

翌朝、世界は、指導者を失った。

各国は混乱したが、次に国を率いるべき者たちのもとには、史人から、黒い鴉の羽根と共に、メッセージが届いていた。

『――戦争を望むな。民を愛せ。もし、再び戦火の匂いがしたならば、我が影は、夜の闇に紛れて、お前たちの枕元に立つだろう』

それは、絶対的な恐怖による、平和の支配だった。

世界は、戦争をすることをやめた。

なぜなら、戦争を始めようとする者を、確実に、そして容赦なく摘み取る、『世界の番人』を名乗る、見えざる悪魔が生まれたからだ。

一条史人と、彼の仲間たちは、歴史の表舞台から完全に姿を消した。

彼らは、世界中から追われる、永遠の逃亡者となった。

数年後。

とある辺境の村。

そこでは、一人の黒髪の男が、小さな診療所を手伝っていた。彼の隣には、いつも穏やかに微笑む、亜麻色の髪の女性がいる。

時折、彼らのもとを、無精髭を生やした、人の良さそうな行商人と、たくさんの本を抱えた、人の好い老人が訪ねてきた。

彼らは、多くを語らない。

ただ、静かに、そして穏やかに、日々を過ごしていた。

戦争で傷ついた人々を癒し、子供たちに文字を教え、時には、村を襲う盗賊を、いつかどこかで見たような、鮮やかな連携で撃退することもあった。

ある晴れた日の午後。

史人は、診療所の庭で、薬草を育てていた。

リナが、彼にお茶を運んでくる。

「……平和、だな」

史人が、ぽつりと呟いた。

「はい。平和ですね」

リナが、にこやかに答える。

史人は、空を見上げた。

青く、どこまでも広がる空。

かつて、彼が戦場から見上げていた、硝煙と絶望に満ちた空とは、全く違う色をしていた。

彼が望んだ世界。

彼が、全てを犠牲にして手に入れた、静かな世界。

その代償として、彼は名前も、居場所も、そして英雄という名誉も失った。

だが、彼の手の中には、それら全てよりも、温かく、そしてかけがえのないものが、確かに残っていた。

空を、一羽の鴉が飛んでいく。

それは、かつて戦場を支配した不吉な影ではない。

ただ、自由な翼で、穏やかな風に乗って飛ぶ、一羽の鳥だった。

史人は、その鴉の姿に、自分の姿を重ねるように、静かに目を細めた。

彼の、長かった戦争は、ようやく、本当に終わったのだ。

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