泥濘の王冠 :Re

ぽこ●ちん超特急

【序章】

雨が、世界の輪郭を溶かしていた。

灰色の帳(とばり)が天から地までを覆い尽くし、第一次魔法対戦の scarred earth――傷だらけの大地を無慈悲に叩き続ける。ここはテリア王国西部戦線、アルヌス平原。かつて黄金の麦穂が風にそよいだという土地は、今や無数のクレーターが穿たれ、黒く焼け爛れた土が剥き出しになった、死の土地だ。

その一角、泥と腐臭に満ちた塹壕の底で、一条史人(いちじょう ふみと)は身を屈めていた。

雨水と、誰かの流した血か、あるいは腐敗した有機物が混じり合ったぬるま湯のような泥水。史人はそれに躊躇なく顔を浸し、ごくり、と音を立てて啜った。飢えを満たすには程遠い。だが、乾ききった喉を潤し、思考を繋ぎ止めるにはこれで十分だった。

生きるためなら、泥水だろうが悪魔の小便だろうが飲み干す。

それが、王都の影、見捨てられたスラムで彼がその骨身に刻み込んだ、唯一にして絶対の生存法則だった。

「――聞こえるか、『鴉(からす)』。こちら『梟(ふくろう)』」

声は出さない。声帯を震わせる行為は、敵の聴覚強化魔法に捉えられる危険を孕む。代わりに、史人は指先に意識を集中させた。彼の足元から伸びる影が、まるで意思を持った生き物のように蠢き、指先から滲み出した闇が泥水の上に微かな波紋を広げた。彼が最も得意とする闇魔法の一系統、『影話(えいわ)』。影を伝って思考を伝達する、この戦場で最も安全な通信手段だ。

《――こちら『梟』。感度、良好すぎるほどだ》

思考が直接、脳内に響く。斥候部隊を率いるベテラン、その驚嘆と疲労が混じった思念が伝わってきた。

《敵の布陣に変化は?》

《変化なし。だが、奴らの戦術級魔法の準備が最終段階に入った。魔力反応が昨日比で三割増しだ。間違いなく、師団司令部ごと我々を吹き飛ばす気だ》

戦術級攻撃魔法『天の鉄槌(メテオストライク)』。バルト公国が誇る広域殲滅魔法。その一撃は、半径一キロを焦土に変える。発動させてはならない。

《位置の特定は?》

《第三丘陵の裏手。こちらの『目』ではそこまでが限界だ。だが、間違いなくそこに術者部隊がいる》

「『蛇』に伝えろ」史人の思考は、氷のように冷徹だった。「第三丘陵裏手、座標デルタ4-7。敵戦術級魔法の兆候あり。狩れ、と」

彼の命令は、影のネットワークを介して瞬時に前線の暗殺遊撃部隊『蛇』へと伝達される。彼らから返事はない。彼らは結果で応える。

史人はゆっくりと顔を上げた。濡れた前髪から滴る泥水が、スラムの栄養失調が刻んだ痩けた頬を伝う。彼の瞳は、自分に向けられるどんな感情よりも昏く、冷たい光を宿していた。貴族将校からの侮蔑、同僚からの嫉妬、スラムの住人からの羨望と憎悪。すべて見てきた。そして、そのすべてに意味がないことも知っている。

価値があるのは、ただ一つ。「生き残ること」。

そのために、史人は何でもする。手段は選ばない。

遠くで、ひときわ大きな爆発音が夜の闇を切り裂いた。直後、人の絶叫とも獣の咆哮ともつかない断末魔がいくつも重なり、やがて不気味な静寂が訪れた。『蛇』が仕事をしたのだ。

《……『梟』より『鴉』へ。……信じられん。本当に、術者部隊を潰しやがった……》

斥候隊長の驚愕が、震えとなって伝わってくる。

《次の指示を》

史人は淡々と返す。感情の起伏はない。これは作業だ。生き残るための、ただの作業。敵を殺し、情報を抜き、裏をかき、欺き、そして生き延びる。

第一次魔法対戦。

かつて一つの『古エルフリーデ帝国』であった大陸は、王権神授を掲げる【テリア王国】、元老院による共和制を理想とする【バルト公国】、そしてカリスマによる独裁で民を導く【エメナ共和国】の三つに分裂した。

理想の違いは利権の対立を生み、やがて避けられぬ戦争へと発展した。

誰もが国の掲げる大義を信じ、あるいは信じたふりをして死んでいく地獄の最前線。

だが、一条史人だけは違った。

彼に大義はない。忠誠もない。信じるのは己の生存本能のみ。

彼は死ぬつもりなど毛頭なかった。

たとえ泥を啜り、友を欺き、悪魔に魂を売ろうとも、必ず生きてこの狂った戦争を終わらせる。

これは、スラムで生まれた一人の卑屈な青年が、その類稀なる情報戦の才覚と獣にも似た生存への執着だけを武器に、血と裏切りに満ちた世界で英雄、あるいは最悪の悪魔と呼ばれることになる物語の、始まりである。

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