冒険者になれない俺達は生きづらい
終うずら
第1話 いつも通り
白亜の尖塔が鳴らす鐘の音が、石造りの街を低く震わせた。
金属の響きは壁を伝い、屋根を抜け、細い路地の奥まで染み込んでいく。
空気に溶けたその音は、石畳の目地を這い、鼠の影すらわずかに揺らした。
昼前の広場は、色と匂いが渦を巻いている。
香辛料の鋭い刺激、焼きたてのパンの甘い香り、革袋で熟れた葡萄酒の酸味。羊脂を燃やす煙がねっとりと絡みつき、鼻腔の奥に残る。
呼び込みの声と値切りの笑い、荷車の軋む音が、互いの隙間を押し合うように重なっていた。
色布が風にひるがえり、影が踊る。
──まぶしい。目に入るすべてが、自分には関係のない色だ。
袖口を癖のように引き下げる。
誰も俺を見ていないのに、視線だけが薄くまとわりつく。
足は自然と細い路地へ逸れる。
陽はほとんど差し込まず、ひやりとした湿気が皮膚を撫でた。酒と黴の匂いが鼻の奥にへばりつき、背後でまだ広場の喧噪が遠く唸っている。
足元を鼠が走り抜け、濡れた石畳の凹凸が靴底に伝わる。
道端には、生きているのかも分からない人影が転がっている。
その脇を、冒険者と呼ばれる人々が通り抜ける。
腰の剣を誇らしげに叩く音が、石畳を響かせる。
仲間と肩を組み、冗談を交わして笑う口元には、戦いへの不安よりも期待が滲んでいた。
麻袋から覗く銀色の刃を日差しにかざす若者は、まるで新しい玩具を見つけた子どものように目を細める。
地図を広げ、指先で階層をなぞる声は弾み、靴音まで軽やかだ。
その熱気が路地の冷えた空気に触れると、白い息のように淡く消えた。
懐の小袋を探る。布越しに伝わる軽さは、ほぼ空っぽ。
胸の奥で心臓がひときわ強く跳ね、頭の奥で鐘の音が再び反響する。
(今日中に手に入れないと……)
今朝から頭痛と動悸が止まらない。視界の端がじわりと霞む。
その時だった。
横からぶつかられ、体がよろめく。
「おい、どこ見て歩いてやがる」
厚手の革鎧を着た大男。鼻の頭が赤く、酒と肉の匂いが混じった息が顔にかかる。
掴まれた胸ぐらがきしんだ。
「……」
無言で手を払う。
その時、袖がずれ皮膚に焼き付いた三本の十字架が露わになる。
大男の目が一瞬で見開かれ、口が何かを言いかけて止まった。
「……チッ」
一歩、二歩と後ずさり、目を逸らす。
そして吐き捨てる。
「早くくたばりゃいいのに……」
周囲がざわつく。
半歩下がる者、顔を背ける者。
すれ違いざま、抑えきれない声が零れる。
「人殺しが……」
──聞き慣れた罵声を背に、影の濃い路地へ足を踏み入れる。
広場の喧噪が遠のくにつれ、湿った石壁と酒の匂いが濃くなる。路地の奥では、溜水に沈んだ空き瓶が鈍く光っていた。
路地を抜けると、煤けた石造りの教会が見えた。
歪んだ鉄枠の扉と沈黙した鐘楼が、風の中に立っている。
扉を押し開けると、古い木の香りと温かな湯気が迎えてくれる。
長机の周りに子どもたちが並び、皿を前に笑い合っている。木のスプーンが器を叩く小さな音が重なって、外の冷えた空気を忘れさせる。
奥では、背の高い男が鍋をかき混ぜていた。
「……また痩せたな」
振り返ったその顔に、かつて見た鋭さが一瞬だけ宿る。だが、すぐに穏やかな笑みに変わった。
黒の長衣に、翼を模した布を肩から垂らした男──ハーランが、器にスープをよそってこちらへ差し出す。
「食え、アッシュ。こっちは寒いだろ」
「……助かるよ」
受け取った木の器は、湯気で視界を曇らせた。
席につくと、隣から低い声が飛んでくる。
「また揉め事か? そういう顔だ」
パンを千切って子どもに渡していた短髪の男──ケインが、口元を緩める。
「ま、俺らは、あんな風にならねぇよな」
顎で指した先、裏手の壁にもたれる外套の男がいた。時折、奇声を上げながら胸元をひっかきまわしている。
痩せこけた指先に爪が割れ、皮膚の赤い線が覗いていた。
食べながら視線を下げると、机の向こうから小さな手が袖をつかんでいた。
「おじちゃん、それなぁに?」
子どもの視線の先には、ケインの手首に刻まれた焼き印。
「これは……お守り、みたいなもんだ」
苦笑して袖を下ろすケイン。──笑えない冗談だ、呪いの間違いだろう。
「いいから早く食べなさい、冷めるぞ」
ハーランが子供の口にスープを突っ込んで黙らせる。
ケインが声を潜めて囁く。
「アッシュ、お前、顔色悪ぃな。薬いるか?」
「……足りてる」
ハーランが鍋をかき混ぜながら短く言う。
「無理するな」
「平気だよ。何とかする」
食事を終えると、子どもたちが器を片づけに走り回った。
走り回る子供達をたしなめながらハーランが口を開く。
「アッシュ。近頃物騒だ、用心しろ」
「……物騒じゃない時があるか?」
その笑い声を背に、俺は教会を後にした。
外に出ると、日はもう沈みかけていた。
空は鉛色にくすみ、通りの影が長く伸びる。石畳の隙間から、冷たい風が足元へ忍び込む。
市場の喧噪はとうに消え、路地裏の焚き火が所々で赤く瞬き、煙が細く立ち上っていた。
帰り道の角で、かすれた声が耳を引っかいた。
「……頼む、ほんの一粒でいい……」
薄暗がりで、外套の男が冒険者に縋りついていた。
袖口から覗くのは焼き印。くぼんだ頬、濁った瞳。年季の入った顔が、必死に地面へ頭を擦りつける。
「薬がないと……頼む……壊れたくない」
冒険者は鼻で笑い、靴先で男を押しのける。
「乞食が夢見てんじゃねえよ。──そうだ、ワンって言ってみろよ!」
男は石畳に崩れ落ち、肩を震わせた。
その横を、通りすがりの市民が冷ややかに見下ろして通り過ぎる。
誰も止めない。誰も助けない。
男はしばらく声を出せず、肩だけが震えていた。
やがて、絞り出すようにワンッと鳴く。
かすれた声が通りの壁に反響し、下劣な笑い声がそれを塗りつぶす。
冒険者が道端に投げた緑色の粒を、男は砂利ごと噛み砕いた。
歯の隙間から血がにじみ、喉が上下に動く。
下卑た笑いが、通りの影に染みていった
俺はフードを深く被り、視線を落として歩き出す。
薬を手に入れなければ、俺もいずれあんな風になる。
冷たい風が頬を撫でた。
──なんてことはない、俺たち
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