10. 権威の過失

 7月ι日、土曜日。午前8時半。


 NIID(国立感染症研究所)新宿庁舎の所長室にて。

 山田厚生あつお――NIIDの所長でありAQUAチームの副室長でもある彼は、PC画面を見ながら眉間にシワを寄せていた。画面上に映るのは、慧が算出した全球汚染シミュレーションの映像だ。


(雨、か……。――さすがに飛躍しすぎじゃないか……?)


 山田は、慧がシミュレーションのために構築したモデルに疑問を抱いていた。


『――今後は、不用意に雨に打たれないように注意してください』


 慧は昨日、AQUAチームのチャット上で注意を呼び掛けていた。

 多くのメンバーがその注意に賛同する中、山田はそれを冷ややかな目で眺めていた。


 山田厚生は、日本における感染病理学の権威である。

 山田は「Acu-SHEアクーシェ」について、生物ベクターによる感染リスクを最大の脅威と捉えていた。また、エアロゾルによる感染の危険性も十分に認識していた。

 しかし、「GRIMグリム」の個体群が上昇気流によって空高く舞い上がり、雨となって再び地上に降り注ぐ、というモデルには実感が湧かなかった。


 ――「GRIM」側にとって、都合が良すぎるのでは……?


 山田の中で、そんな懐疑的な印象が先に立った。


(……優秀な人なんだろうが、奥さんを亡くして精神的に不安定になっているんじゃないか? ――さかき先生を初め、みんなが彼の言うことを鵜呑うのみにしてしまっているようだ……。僕だけでも、否定的な見方を持っておこう)


 そんな山田の考えは、ある意味で科学者として誠実なものだと言えたかもしれない。


 シミュレーションの映像が止まると、山田は外出の準備を始めた。

 土曜ではあるが、ある企業の重役とのアポイントメントが入っていた。

 稚河ちかわ製薬――栃木県に本社を構える大手製薬会社だ。


(日本の未来のために、いま僕に打てる手を尽くさなければ)


 山田は自らに課せられた使命を意識し、気を引き締め直した。


    †


 午前10時前。栃木県内の県道にて。

 山田の姿は、稚河製薬の本社へ向かう乗用車の後部座席にあった。NIIDが所有する公用車である。


 山田は、窓の外を流れる景色に懐かしさを感じていた。山田が20代や30代だった頃、彼は栃木県内を何度か車で旅行した経験があった。


(予定には少し早い。この辺りだったら――)


 山田の脳裏に、付近の景勝地の情報が浮かび上がった。

 山田は座席から前のめりに身を乗り出し、運転手に話しかける。


「……すまない。少し寄り道をしてもらえるかな? すぐ近くに天散あめちり神社という神社があるんだ」

「天散神社ですか? 構いませんよ」


 運転手が了承したところで、山田は神社の住所を伝えた。



 10分後。

 山田は天散神社の隣の駐車場で車を下り、1人で神社に参拝することにした。


(会議の成功と、国家の安寧を祈願しておこう)


 歴史ある神社だが、観光客目線ではマイナーな神社だ。

 境内にはほぼ人がおらず、閑散としていた。


 拝殿の前に立った山田は、小銭を投げ入れた上で祈りを捧げた。


 ――その直後だった。


 バケツを引っくり返したような大雨が、神社の付近一帯に降りだした。


(なっ……!)


 山田は内心で仰天した。


 ついさっきまで青く晴れ渡っていた空は、今は真っ黒な雲に覆われている。

 近年でも珍しい、極端なゲリラ豪雨だった。


 山田は傘を持っていなかった。持っていたとしても、きっと車に置いて来ていただろう。


 境内の庭を激しく打つ雨は、一向に止む気配がない。


(こんなことで、大事な会議に遅れるわけには行かない……!)


 山田は覚悟を決め、駐車場までの道のりを走ることにした。


 乗用車に駆け込むまでの数百メートルで、山田はぐっしょりとれネズミになった。


「……ああ、ひどい目に遭った」

「災難でしたね。――どこかに寄りますか?」


 ぼやく山田に対し、運転手は気を利かせてそう提案した。


「うーん……。じゃあ、近くのコンビニにでも。タオルで雨を拭きたい」

「わかりました」


 季節が夏だったのは幸いだった――と、山田は思った。

 寒い時期だったら、きっと風邪を引いてしまっただろうから。


 ――このとき、何かを忘れているような思いが一瞬、山田の脳裏をかすめた。が、目前に迫る会議の方が重要だ、と山田は意識を切り替えた。



    ††



「――『Acu-SHE』の末期症状については、ご理解いただけたでしょうか? 続いて、この〝死病〟に対して有効と考えられる候補薬について話をさせてください」


 稚河製薬本社の役員会議室で。

 山田は居並ぶ重役らを前に、PC画面を投影しながらプレゼンテーションを行っていた。


「――本庄亜梨朱ありす氏のデータ解析によって、『Acu-SHE』の発作を食い止める効果があると考えられる既存薬がリストアップされています。その最有力候補の1つが、御社が国内で独占的販売権を持つ『バリシチニブ』です」


 山田の話に対し、稚河製薬の役員らは固唾を呑んで聞き入っていた。


 那実川に端を発した「Acu-SHE」の人的被害はひとまず収束した――彼らはそう信じていた。しかし、実はその汚染の波がじわじわと日本列島全体をむしばみつつある。山田にそれを聞かされたからだ。


 現状が国家的な危機であり、「Acu-SHE」に有効な薬をどれだけ用意できるかが、未来に生存可能な国民の数に直結する。――山田はそう語った。


「治験はこれからです。しかし、有効性が確認され次第、すぐに認可が下りるでしょう。その際に全国の医療機関に手配できるよう、予め準備を進めていただきたい」


 山田の言葉に、稚河製薬の代表者は真剣な面持ちで頷いた。


「……ただちに製造元に要求を上げ、最大数を確保できるように動きましょう」


 その反応に、山田は満足の行く手応えを感じた。



    ††



 昼食を挟み、山田は予定していた瑞篠山みずしのやま周辺の視察を行ってから帰京することにした。


 ――この間、既に国内で新たな災害・・・・・が勃発していた。緊急連絡を受けた山田は、NIIDの代表者として電話やチャットで可能な限りの指示を行った。


(……現場はもう動いている。今から急いで戻っても、できることに大差はなさそうだ)


 山田はそう考えた。



 午後2時過ぎ。

 栃木県北東部までやって来た山田は、のどかな山道を走る車両の後部座席に身を預けていた。


(――変だな……?)


 ぼうっとしていた山田は、ふと倦怠感に気づいた。

 今朝時点で自身の健康状態に異常はなかった。そう記憶していたのに。


 山田はそっと左手首に触れ、自身の脈拍を計る。

 ……どうやら、心拍数が100前後まで上がっている。

 息苦しさを感じ、山田はシャツの襟元を緩めた。


「――暑いですか?」

「いや、どうもね。今朝の雨で少し体調を崩したかもしれないな」


 運転手の問いに答えながら、山田はハッとした。


『今後は、不用意に雨に打たれないように注意してください』


 今更のように、宇梶慧の忠告を思い出す。


 ――ただの風邪ならまだ良い。しかし、これが万一・・Acu・・・-SHE・・・の前駆症状・・・・・だったら……?


 山田は腕時計を見る。雨に打たれてから4時間は経っていた。

 ――おそらく、すぐにでも発作が始まる可能性はある。もし、そうなったら……


 山田の心中で激しい葛藤と逡巡がせめぎ合った。

 数分の後、山田はスマートフォンを手に取った。ひとまず電話を掛ける。――それを決心したのだ。


『――比護です。どうかしましたか?』


 聞き慣れた優秀な部下の声に、山田はほっとひと息をついた。


「比護君、落ち着いて聞いてくれ。私は『Acu-SHE』に感染したかもしれない」

『え――?』


 電話の向こうで比護が絶句した。


「午前中に雨に降られてしまったんだ。急な大雨で……出先で、傘を持っていなかった。――つい先ほど、自分の体調がおかしいことに気づいた」

『……なるほど』


 比護が考え込む様子が、山田に伝わった。


「これが杞憂なら良いんだが……――僕が倒れたら、国の感染症対策については君に託すよ……」

『そんな――……所長、近くに大きな病院はありませんか? バリシチニブがあるかはわかりませんが、デキサメタゾンなら手に入りやすいはずです。発作を止められる可能性があります』


 デキサメタゾンも、「Acu-SHE」に有効と考えられる既存の候補薬の1つだ。

 山田は、比護の判断の的確さに感心した。


「確かにその通りだ。探してみるよ」


 通話を終えた山田は、運転手に目的地の変更を告げる。

 山田を乗せた乗用車は、法定速度を越えるスピードで走りだした。


    †


 15分後。

 車は近隣の総合病院に到着した。

 山田は運転手の肩を借りて病院の入口へ駆ける。


「……君、個人防護具を着けなさい。私には感染の疑いがある……」

「人の心配をしてる場合ですかっ!」


 運転手とそんな会話をしながら、山田は病院の受付窓口にたどり着いた。

 青息吐息の山田をソファに座らせ、運転手が山田の身分証を借りて受付の看護師に訴える。


「こちらは感染研の山田所長です。『Acu-SHE』に罹患りかんした可能性があります。すぐにデキサメタゾンを処方してください!」


 受付は騒然となった。

 すぐに医師がその場に駆けつけ、事情を把握すると山田をストレッチャーで運ぶように指示を出した。


 集中治療室ICUに運び込まれたとき、山田の意識は朦朧もうろうとしていた。


「デキサメタゾン、注射します」


 医師が静脈注射を施した直後――


「――ぅぐ、ぐがああぁぁぁっっ……!!」


 山田の全身が寝台の上で激しく痙攣けいれんし始めた。

 それは、明らかな「Acu-SHE」の発作だった。


「心拍、血圧ともに低下しています!」

「アドレナリン投与!」


 医師や看護師たちが懸命に救命措置を行うも、発作が収まることはない。

 山田の目や鼻から赤い血潮が溢れ出し、手足に蜘蛛の巣状の紫斑が広がっていく。


 ――10分後。


「……死亡を確認しました」


 日本の感染症対策を代表する権威の命は、いともたやすく失われた。

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