10. 権威の過失
7月ι日、土曜日。午前8時半。
NIID(国立感染症研究所)新宿庁舎の所長室にて。
山田
(雨、か……。――さすがに飛躍しすぎじゃないか……?)
山田は、慧がシミュレーションのために構築したモデルに疑問を抱いていた。
『――今後は、不用意に雨に打たれないように注意してください』
慧は昨日、AQUAチームのチャット上で注意を呼び掛けていた。
多くのメンバーがその注意に賛同する中、山田はそれを冷ややかな目で眺めていた。
山田厚生は、日本における感染病理学の権威である。
山田は「
しかし、「
――「GRIM」側にとって、都合が良すぎるのでは……?
山田の中で、そんな懐疑的な印象が先に立った。
(……優秀な人なんだろうが、奥さんを亡くして精神的に不安定になっているんじゃないか? ――
そんな山田の考えは、ある意味で科学者として誠実なものだと言えたかもしれない。
シミュレーションの映像が止まると、山田は外出の準備を始めた。
土曜ではあるが、ある企業の重役とのアポイントメントが入っていた。
(日本の未来のために、いま僕に打てる手を尽くさなければ)
山田は自らに課せられた使命を意識し、気を引き締め直した。
†
午前10時前。栃木県内の県道にて。
山田の姿は、稚河製薬の本社へ向かう乗用車の後部座席にあった。NIIDが所有する公用車である。
山田は、窓の外を流れる景色に懐かしさを感じていた。山田が20代や30代だった頃、彼は栃木県内を何度か車で旅行した経験があった。
(予定には少し早い。この辺りだったら――)
山田の脳裏に、付近の景勝地の情報が浮かび上がった。
山田は座席から前のめりに身を乗り出し、運転手に話しかける。
「……すまない。少し寄り道をしてもらえるかな? すぐ近くに
「天散神社ですか? 構いませんよ」
運転手が了承したところで、山田は神社の住所を伝えた。
10分後。
山田は天散神社の隣の駐車場で車を下り、1人で神社に参拝することにした。
(会議の成功と、国家の安寧を祈願しておこう)
歴史ある神社だが、観光客目線ではマイナーな神社だ。
境内にはほぼ人がおらず、閑散としていた。
拝殿の前に立った山田は、小銭を投げ入れた上で祈りを捧げた。
――その直後だった。
バケツを引っくり返したような大雨が、神社の付近一帯に降りだした。
(なっ……!)
山田は内心で仰天した。
ついさっきまで青く晴れ渡っていた空は、今は真っ黒な雲に覆われている。
近年でも珍しい、極端なゲリラ豪雨だった。
山田は傘を持っていなかった。持っていたとしても、きっと車に置いて来ていただろう。
境内の庭を激しく打つ雨は、一向に止む気配がない。
(こんなことで、大事な会議に遅れるわけには行かない……!)
山田は覚悟を決め、駐車場までの道のりを走ることにした。
乗用車に駆け込むまでの数百メートルで、山田はぐっしょりと
「……ああ、ひどい目に遭った」
「災難でしたね。――どこかに寄りますか?」
ぼやく山田に対し、運転手は気を利かせてそう提案した。
「うーん……。じゃあ、近くのコンビニにでも。タオルで雨を拭きたい」
「わかりました」
季節が夏だったのは幸いだった――と、山田は思った。
寒い時期だったら、きっと風邪を引いてしまっただろうから。
――このとき、何かを忘れているような思いが一瞬、山田の脳裏をかすめた。が、目前に迫る会議の方が重要だ、と山田は意識を切り替えた。
††
「――『Acu-SHE』の末期症状については、ご理解いただけたでしょうか? 続いて、この〝死病〟に対して有効と考えられる候補薬について話をさせてください」
稚河製薬本社の役員会議室で。
山田は居並ぶ重役らを前に、PC画面を投影しながらプレゼンテーションを行っていた。
「――本庄
山田の話に対し、稚河製薬の役員らは固唾を呑んで聞き入っていた。
那実川に端を発した「Acu-SHE」の人的被害はひとまず収束した――彼らはそう信じていた。しかし、実はその汚染の波がじわじわと日本列島全体を
現状が国家的な危機であり、「Acu-SHE」に有効な薬をどれだけ用意できるかが、未来に生存可能な国民の数に直結する。――山田はそう語った。
「治験はこれからです。しかし、有効性が確認され次第、すぐに認可が下りるでしょう。その際に全国の医療機関に手配できるよう、予め準備を進めていただきたい」
山田の言葉に、稚河製薬の代表者は真剣な面持ちで頷いた。
「……ただちに製造元に要求を上げ、最大数を確保できるように動きましょう」
その反応に、山田は満足の行く手応えを感じた。
††
昼食を挟み、山田は予定していた
――この間、既に国内で
(……現場はもう動いている。今から急いで戻っても、できることに大差はなさそうだ)
山田はそう考えた。
午後2時過ぎ。
栃木県北東部までやって来た山田は、のどかな山道を走る車両の後部座席に身を預けていた。
(――変だな……?)
ぼうっとしていた山田は、ふと倦怠感に気づいた。
今朝時点で自身の健康状態に異常はなかった。そう記憶していたのに。
山田はそっと左手首に触れ、自身の脈拍を計る。
……どうやら、心拍数が100前後まで上がっている。
息苦しさを感じ、山田はシャツの襟元を緩めた。
「――暑いですか?」
「いや、どうもね。今朝の雨で少し体調を崩したかもしれないな」
運転手の問いに答えながら、山田はハッとした。
『今後は、不用意に雨に打たれないように注意してください』
今更のように、宇梶慧の忠告を思い出す。
――ただの風邪ならまだ良い。しかし、これが
山田は腕時計を見る。雨に打たれてから4時間は経っていた。
――おそらく、すぐにでも発作が始まる可能性はある。もし、そうなったら……
山田の心中で激しい葛藤と逡巡がせめぎ合った。
数分の後、山田はスマートフォンを手に取った。ひとまず電話を掛ける。――それを決心したのだ。
『――比護です。どうかしましたか?』
聞き慣れた優秀な部下の声に、山田はほっとひと息をついた。
「比護君、落ち着いて聞いてくれ。私は『Acu-SHE』に感染したかもしれない」
『え――?』
電話の向こうで比護が絶句した。
「午前中に雨に降られてしまったんだ。急な大雨で……出先で、傘を持っていなかった。――つい先ほど、自分の体調がおかしいことに気づいた」
『……なるほど』
比護が考え込む様子が、山田に伝わった。
「これが杞憂なら良いんだが……――僕が倒れたら、国の感染症対策については君に託すよ……」
『そんな――……所長、近くに大きな病院はありませんか? バリシチニブがあるかはわかりませんが、デキサメタゾンなら手に入りやすいはずです。発作を止められる可能性があります』
デキサメタゾンも、「Acu-SHE」に有効と考えられる既存の候補薬の1つだ。
山田は、比護の判断の的確さに感心した。
「確かにその通りだ。探してみるよ」
通話を終えた山田は、運転手に目的地の変更を告げる。
山田を乗せた乗用車は、法定速度を越えるスピードで走りだした。
†
15分後。
車は近隣の総合病院に到着した。
山田は運転手の肩を借りて病院の入口へ駆ける。
「……君、個人防護具を着けなさい。私には感染の疑いがある……」
「人の心配をしてる場合ですかっ!」
運転手とそんな会話をしながら、山田は病院の受付窓口にたどり着いた。
青息吐息の山田をソファに座らせ、運転手が山田の身分証を借りて受付の看護師に訴える。
「こちらは感染研の山田所長です。『Acu-SHE』に
受付は騒然となった。
すぐに医師がその場に駆けつけ、事情を把握すると山田をストレッチャーで運ぶように指示を出した。
「デキサメタゾン、注射します」
医師が静脈注射を施した直後――
「――ぅぐ、ぐがああぁぁぁっっ……!!」
山田の全身が寝台の上で激しく
それは、明らかな「Acu-SHE」の発作だった。
「心拍、血圧ともに低下しています!」
「アドレナリン投与!」
医師や看護師たちが懸命に救命措置を行うも、発作が収まることはない。
山田の目や鼻から赤い血潮が溢れ出し、手足に蜘蛛の巣状の紫斑が広がっていく。
――10分後。
「……死亡を確認しました」
日本の感染症対策を代表する権威の命は、いともたやすく失われた。
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