4. 発見

 同日、午前9時過ぎ。

 神奈川県、JAMSTECジャムステック(海洋研究開発機構)本部。


 理事である六津むつゆたかの部屋には、研究者らしからぬ巨体の持ち主が訪れ、ソファに身を沈めていた。


「六津さん、そのAQUAアクアチームってのは各分野のトップの科学者たちの集まりなんでしょう? 俺なんかが入っていいんですかね?」


 出された茶に手をつけようともせず、不機嫌そうに眉を「ハ」の字に寄せたこの巨漢の名は魚渕うおぶち虎吾郎とらごろう。日本海洋大学の出身で、JAMSTECでは主任研究員を務めている。


 昨日の午後、六津がAQUAチーム――科学対策統括室への参加を打診したとき、魚渕は「『宝の海』を汚す〝化け物〟の正体を捕まえてやる」と息巻いていた。しかし、一夜明けて組織の錚々そうそうたる顔ぶれを知ると、急に気後れしたらしい。


「おいおい、魚渕君。心にもないことを言うのはやめてくれよ」

「六津さん」


 奥のデスクにいた六津が魚渕をなだめると、魚渕はその言葉にかぶせるように言う。


「俺のことは、〝シャチ〟って呼んでくださいよ」


 魚渕がにかっと白い歯を見せる。赤ん坊が見たら泣き出しそうな悪人づらだ。

 六津は苦笑した。


 ――相変わらず、アクの強いやつだ。


 コンコンと、室内にノックの音が響いたのはそんなときだ。

 ドアを開けた若い研究助手の男が、一歩室内に入って報告する。


「六津理事、茨城県の科捜研から試料サンプルが届きました」


 それを聞いて、六津と魚渕は同時に腰を上げた。



    †



 JAMSTEC本部内――研究棟の一角にある海洋微生物研究室に移動した、六津と魚渕の眼前。

 ステンレス製の実験台の中央に、毒物であることを示す赤いドクロマークの警告シールが貼られた保冷ボックスが密閉状態で置かれていた。

 科捜研(科学捜査研究所)から届いた試料とは、大岸海岸付近の海で採取された海水のことだった。


「早く開けましょうや」


 うずうずと急かすように言う魚渕を、六津は慌てて手で制す。2人共、この部屋に入る前に白衣に着替えていた。


「待て、シャチ君。感染研の比護君によれば、BSL-3相当の施設で取り扱ってほしいとのことだ」


 それを聞いた魚渕はぎょっと目を見開く。


 BSLとはバイオセーフティーレベル(biosafety level)の略であり、細菌やウイルスなどを扱う施設の安全基準の規格を表す。数字が大きいほど、安全で厳格な基準となる。

 彼らが今いるこの微生物研究室は、ここJAMSTEC本部で数少ないBSL-2に適合する実験室だ。本部内にはBSL-3以上の施設はない。


 魚渕は試料に手を出せないと聞いて、不満を露わにする。


「BSL-3〜? そんなモン、ここにはありませんぜ! 科捜研かどっかで、何か事故でもあったんですかね?」

「いや、そんな話は聞いてないが……。万難を排するための指示だろう」

「はあ……。これだからエリートってやつは……」


 魚渕は呆れたように溜め息をき、がっくりと両肩を落とした。しかし次の瞬間、その目が獲物を見つけたサメのようにぎらりと輝いた。

 その目つきに、六津は悪い予感を感じた。


「……おい、何をする気だ」

「不安だったら、六津さんは外に出ててください。モノが目の前にあるのに、このまま指をくわえて見てられっかよ」


 そう言うと魚渕はマスクとゴーグル、そしてラテックスの手袋を装着する。


「おい!」


 魚渕は六津の制止を聞かず、保冷ボックスの蓋を開けた。その中に見えるのは、液体――海水が入った半透明のポリエチレン容器だ。それがチャック付きポリ袋に収められていた。


「はあ……君というやつは」


 六津は首を左右に振りながらも、部屋を出て行くことなく魚渕にならってマスクとゴーグルをしっかりと装着した。管理監督者として、魚渕の作業を見守ることにしたのだ。


 魚渕はポリ袋の外面をアルコールで手際よく消毒すると、そのまま安全キャビネットの中に置く。ガラス扉を下げ、内部でファンが動いて気流が安定するまで静かに待つ。その後、安全キャビネット内でポリ袋を開いて中のポリ容器を慎重に取り出した。


「……開けますぜ」


 魚渕が安全キャビネット内でポリ容器の蓋に手を掛ける。六津はごくりと生唾を飲んで、その様子を見守った。


 海水が安全キャビネット内の空気に触れる。見た目には何の異常もない。

 魚渕は素早くピペットを中に突っ込み、海水を採取してポリ容器の蓋を閉じる。

 そのままキャビネット内でプレパラートを作成すると、それを蓋付きの滅菌シャーレに入れてからキャビネットの外に取り出した。


 魚渕はまず、試料を光学顕微鏡で観察することにした。



「……ん? なんだこりゃ。ゴミか……?」


 どこにでもいる植物プランクトンの一種である渦鞭毛藻うずべんもうそうの姿を捉えた魚渕は、それにピントを合わせた際に異常に気づいた。


 大きさ100μmほどの渦鞭毛藻の表面に、びっしりと小さな粒が付着しているように見える。まるで、砂粒のコートにまとわりつかれているかのようだった。

 魚渕は顕微鏡の対物レンズを最高倍率に切り替え、この小さな粒子にピントを合わせる。


「なんだこれは……」


 魚渕の背後からモニターを見ていた六津が、息をんだ。


 大きさは約1μm。形状はグミのようで、一定ではない。

 表面はのっぺりとした半透明の材質で、中を見通すことはできなかった。


「……わからねぇ。だが、気味がわりぃな……」


 魚渕はレンズを切り替えながら細かく試料の位置を調整する。すると、同様に砂粒のような何かが大量に付着した植物プランクトンの姿が次々と映し出された。

 ここで魚渕は、この謎の粒子を徹底的に調べることを決意する。


「六津さん、電子顕微鏡を使うぜ。午前中でこいつの正体を暴いてやる」

「……ああ、許可する」


 魚渕には予感があった。

 この小さなグミ粒状の〝何か〟が、植物プランクトン消失の謎を解き明かす鍵を握っている、と。



 ――本来、走査型電子顕微鏡で観察する試料を準備するには、化学物質による固定や乾燥、金属コーティングといった工程で数時間から丸1日ほどの時間を要する。

 しかし、それを簡略化するための「迅速観察法」と呼ばれる確立された手法がいくつか存在しており、今回魚渕はそれを採用することにした。


 目の細かいフィルターで試料をし取り、簡易的な脱水・乾燥のプロセスを施し終えるまでに魚渕が費やした時間は2時間ほどだった。

 あとは顕微鏡に備えられた低真空モードを使えば金属コーティングの工程を省略できる。


 魚渕は、中座した六津がこの場に戻るのを待つよりも早く、観察を開始する。


 モニターの中に見慣れた渦鞭毛藻の姿が現れ、その姿が次第に大きくなっていく。


「さあて、鬼が出るか、蛇が出るか……」


 やがて、その表面に付着した無数の粒子にピントが合う。


 ――魚渕は絶句した。


 その物体の外見は、グミ粒とはかけ離れていた。

 金属のように硬質で滑らかな表面を持つ、真球状の物体。

 どう見ても、生物ではない。


 拡大して見れば、わずかに起伏のある表面全体に不思議な幾何学模様が刻み込まれていた。桁外れの精密さと相反する歪みを兼ね備えたその紋様は、見る者の理解を拒み、本能的な恐怖を刺激した。


 そんな異様な物体が、びっしりとプランクトンの表面を覆っていた。


「――なんじゃこりゃあっ!!」


 魚渕の叫びは、施錠された研究室の外までよく響いた。

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