2章 覆水不帰

1. AQUAチーム、始動

覆水ふくすい不帰ふき』……「覆水盆に返らず」と同じ意味。「覆水不返」の方がふつうだが、章題ではあえて「不帰」とした。

────────────────────────────



 7月ε日、火曜日。

 日本の一部の人々にとって、災厄の到来が明らかとなった激動の7月δ日から一夜が明けた。

 ……だが、人々はまだ悪夢から覚めることを許されたわけではなかった。



    †††



 午前9時過ぎ。

 首相官邸、その地下に設けられた危機管理センター。


 中会議室に集まった数名の人間は、前方の大スクリーンに注目していた。

 茨城県を中心とする地図。県を横断する那実川周辺から河口付近の沿岸に渡って、ポツポツと赤い点が広がっている。今回の災害の被害状況が、リアルタイムで更新されているのだ。


 ――死者、10,302名。


 その数は、今もなお増え続けていた。


「見ての通り、状況は最悪です」


 奥側の席に座った熟年の男――総理大臣の汐崎しおざき崇元たかもとが淡々と述べた。


「青木君、例の組織図を出して」

「はい」


 汐崎の指示に従い、秘書官がスクリーンの映像を切り替える。

 表示されたのは、発足したばかりの緊急災害対策本部の組織図だ。

 本部長を務める汐崎総理以下、官房長官を含む各省庁のトップクラスの要人が名を連ねている。

 その下部組織として、いくつかの専門チームが設けられていた。その内の1つが――


「『科学対策統括室』――あなた方2名にこの組織を任せたい」


 相対する席に就いていた2名――JAXA理事であるさかき征士郎せいしろうと、国立感染症研究所所長の山田厚生あつおはごくりと喉を鳴らした。

 科学対策統括室の室長に榊、副室長として山田の名が入っていた。


 医療チーム、情報支援チームなど他の専門チームの名が「チーム」であるところ、唯一の「室」という名の組織。それは扱う領域の広さと、役割の重要性を表していた。

 組織図を見ていた榊は、ふと組織につけられたもう1つの呼称に気づく。


AQUAアクアチーム、ですか……?」

「ああ」


 汐崎が思い出したかのような声を上げた。


「1つだけ〝室〟というのも気になるでしょう。通りがいい名前を考えてくれと言った結果がこれですよ。――速水はやみ君、これ何の略でしたっけ?」

「はい!」


 同席していた壮年の男性がはきはきと応える。

 彼の名は速水あらた。内閣官房に属する参事官だが、これからは科学対策統括室の補佐官として、榊ら科学者陣と政府との仲立ちをすることになる。


All-domainオールドメイン QUarantineクオレンティーン andアンド Analysisアナリシス taskforceタスクフォース――日本語に訳すなら、全領域検疫分析タスクフォース、となります」


 AQUAチームという名称の考案者は速水だった。


「『水』を守るためのチーム、というわけですね。まあ、わかりやすくていいんじゃないでしょうか」


 汐崎がそのようにまとめ、短い任命式は終わった。


    †


 汐崎総理が秘書官を伴って退出した後、中会議室には榊、山田と速水の3名が残された。会議室はしばらく自由に使って構わないとのことだ。


 榊と山田の2人は早速、新組織のツートップとして今後の体制構築について話し合う。


「この国難には、日本の科学界の力を結集させる必要があるでしょう」


 榊がその前提を述べると、山田も頷いた。


「ええ。植物プランクトンの話は今朝初めて聞きましたが、これはもう、1つや2つの分野に収まる災害ではありませんね」


 榊と山田のやり取りに対し、対面に席を移した速水がうんうんと頷いていた。チーム名に「All-domain(全領域)」という枕詞まくらことばをつけて良かった、とでも思っていそうな顔だ。


「海洋学研究の六津むつ君ほか、水文学、気象学など、物理に近い領域の専門家については、私の方から声を掛けようと思います」

「では私は生物、医療系と、生化学系も担当しましょう。感染研の研究員にも手伝ってもらいますよ」

「――1つ、いいでしょうか?」


 話に割り込んで来たのは、速水だ。

 榊は意外な横槍に驚きつつも、発言の続きを促す。


「何かね?」

「ゲノム・フロンティア社の本庄ほんじょう社長にも協力を要請するのはどうでしょうか? 素人考えで恐縮ですが、事態を収拾するには新薬の開発が必要になるのではないかと」

「新薬かね? 確かに……」


 榊はそれを聞いて、一理あると認める。

 汚染された水を摂取しても、発症を防ぐような薬が開発できたとしたら、災害の脅威度は大幅に下がると言えるだろう。


「本庄さんか……」


 山田もまた、頭ごなしに否定することはしなかった。


 ゲノム・フロンティア社と、その代表である本庄の名は日本人の間で有名だ。

 9年前に本庄が立ち上げたAI創薬スタートアップ企業。それが、ゲノム・フロンティア社だ。

 彼女とこの会社の名は数年前、新型コロナウイルスの流行禍において多くの人々に知れ渡った。その最大の功績は、国産mRNAワクチンの開発と実用化。しかもそれを、世界の巨大製薬会社に比肩する速度で行った。


「どうなんですか?」


 榊が山田に問うた。

 事は医療に関わる。つまり、この場で意思決定の鍵を握るのは、感染研の代表である山田だ。


「ふつうに考えれば早すぎます。まだ病原も何もわかっていませんから。しかし、彼女の会社は医療系のビッグデータの扱いに長けています。臨床データが共有できるなら、我々が見過ごしていた手がかりを見つけてくれるかもしれない」


 そこで山田は速水に目線を向ける。

 速水は、わかっていると言わんばかりに頷く。


「データの共有についてはお任せください。早急に法的な問題をクリアできるよう、手配いたします」


 ――話が早い。


 榊も山田も、ここまでのやりとりで速水という人物が官僚の中でも稀有けうな存在であるという感触を得ていた。


「なるほど。じゃあ、頼んだよ」

「はい!」


 話題は次に、宇梶慧からの訴えの中にあった瑞篠みずしの山の現地調査の件に移る。


「こちらからは宇梶君とその助手、あとJAXAの職員数名の派遣が決まっています。感染研の方はどうですか?」

「はい。比護君以下、職員を数名選抜済みです」

「現地まではどうやって?」


 榊のその問いは、速水に向けられていた。


「防衛省に話を通してあります。当日は自衛隊のヘリでみなさんを現地に送り届けます」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る