第2話 係長退職する
早朝五時半。
俺は日課である魔力トレーニングに向かう。
家から一番近いポータルは歩いて五百メートルほどにあるのだが、いま一番気に入っているトレーニング施設は自宅と会社のちょうど中間辺りに位置する『汐留第十六ポータル』
ポータルを入るとそこは真っ白な空間になっている。
落下している時のような浮遊感を感じつつ数秒待つと、前方に透明なゲートが出現。
スマホのダンジョンアプリを起動しゲート脇の端末にかざすと、フォンという音とともに左右に扉が開く。
ちなみに入場料は一日三百円。サブスク登録すれば月額八千円。
クレジットカードや他のキャッシュレス決済にも対応しているが、ダンジョンペイを使えば十パーセントポイント還元中なので実質一択だ。
ゲートを抜けるとそこには雲一つない青空と起伏のない広大な草原が広がっている。
三百六十度見渡しても壁などなく、そんな空間が見渡す限り延々と続く。
見慣れた光景だが、これが本当に地下空間なのかといまだに驚かされる。
第二階層へと降りる階段はポータルの数に比べればかなり少ない。
階段周辺は厳重な警備体制が敷かれており、探索者カードを持つ者しかゲートを通してもらえない。
第一階層には国の認可を受けた様々な施設が建ち並んでいるので、長時間の滞在も全く苦にならない。
ダンジョン定番の装備品を扱う店や魔石換金所に始まり、休憩所に喫茶店、各ジャンルの食事処はもちろんのこと総合案内所や疲れた体を癒すマッサージ店などもある。
道具屋と書かれた看板を通り抜け、俺は迷わずお気に入りのトレーニングブースへと向かった。
ブースは一部屋ごとに壁と天井で仕切られ二十畳ほどの完全個室になっていて、ランニングマシンやバーベルなどジムでよく見かける器具が置かれている。
外の世界と違うのは筋力や体力を鍛えるのではなく、ここでは魔力をトレーニングするってとこだ。
通常の動きであれば魔力を消費することはほぼないが、特別な能力を発現したい場合は行動一つ一つに魔力を使用する。
そして、魔力を増やす方法の一つが消費と回復を繰り返すこと。やってる動作は一般的な筋トレとなんら変わらないのだが。
俺はこのトレーニングを十年間休まず続けている。
魔力を使っているので、鍛えたからといって筋骨隆々になるわけではなく体型の変化はほぼない。
見た目は歳相応に劣化していると思うが、むしろ十年前と変わらないのだからマシな方だろう。
「よし、やるか」
部屋に入り、まずは入口右側にある重力パネルを操作する。
ズシンと程よい重さが全身に伝わってきた。
「やっぱりダンジョンだとすこぶる調子がいいな。外じゃ階段を登るだけで息切れするっていうのに」
汐留ポータルのトレーニングブースは一年ほど前にできたばかりの最新設備。
しかし、この時間は比較的空いていて、特に一番右端のこのブースは混んでいるところを見たことがない穴場スポットだ。
毎日の日課は以下の通り。
瞑想、ストレッチ10分
ランニングマシン30分
筋力トレーニング30分
瞬発力トレーニング30分
シャワータイムと着替え10分
自己流なので、その日によって思い思いに内容を変える場合もあるが、だいたいこんな感じ。
こんなトレーニングでどれだけ鍛えられているのか不安もあるが、探索者でない以上やれることはこれくらいしかない。
定期的に計測している魔力量は探索者の平均くらいあるので、一定の効果は出ているはずである。
「さてと、そろそろ出社の時間だな」
トレーニングを終えるのはいつも八時二十分。
それから急いでシャワーを浴び着替えて会社に向かえば出社時間十分前に着く計算だ。
□
「井崎くん。正気なのか?」
「はい。以前から決めていたことなので」
会社に到着すると、上司である本部長に少し時間をもらい、早速会議室で辞表を叩きつけた。
「とはいってもなぁ。本人が辞めたいと言うなら拒否する訳にはいかないが、もう一度考え直してはくれないか?」
「申し訳ありません。何度も考え直し思い留まってきましたが、今が一番良いタイミングだと判断したのです」
「そこまで決意が固まっているのであれば仕方ないが。はぁ。そうかぁ。一番頼りにしていた君がいなくなるのは我が社にとってかなりの痛手だよ」
出社前と出社後のトレーニング時間を確保するため残業の少ない管理部門に異動させてもらったこともあり、役職は十年間変わらずの係長止まり。
営業部のままキャリアを積んでいれば、もう少し出世できたかもしれないが、たらればを言ってもしかたない。
美沙子と杏奈には申し訳ないことをしたが、ずっと家族を一番に考えてきたし今後もそれは変わらない。これからは自分の夢である探索者として二人を支えていこうと思う。
「彼らをまとめられるのは君しかいないと思ってたんだがな。最近入社した若手も探索者のインフルエンサーになりたいと言って先日辞めていったばかりだし。まさか君までそうなるとは思わなかったよ」
もともとそれほどコミュ力が高い方ではないのだが、仕事以外で部下とコミュニケーションを取るのはダンジョンや探索者の話題ばかりだった。
部署は違うものの、辞めていった若手というのはよく知っている。
若い世代の誰もが関心のある話だからか自然と後輩や部下との話題には事欠かなかった。
「最近は自動追尾型ドローンなんかもありますし、ダンジョン配信は大人気ですからね。私はまず探索者として一人前になれるよう精進しようと思います」
「私ももう少し若ければ夢を追いかけてみるのも悪くなかったかもしれんが」
「最近は定年されてから探索者をする方も増えているみたいですよ」
「もしそんな日が来たら、その時はよろしくな。それと引き継ぎはしっかり頼むよ」
「はい。すでに準備は進めています」
「はぁ⋯」
引き留められるとは思っていたが、本部長がここまで自分を買ってくれていたとは知らなかった。
いつもはグチグチと小言を言ってくるのに。
辞表を叩きつける必要はなかったかな。
あんなに落ち込まれるとなんだか悪いことをした気分になってしまう。
引き継ぎと言っても管理部門はベテラン社員が多く俺に仕事を教えてくれた人達ばかり。
退職は一ヶ月後になったものの、二週間で引き継ぎが完了したので後半の二週間は有給を消化し、ひたすらトレーニングに明け暮れるつもりだ。
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