第26話

 十五時三十二分、綾園市役所前広場――

 普段は役所に勤める人間以外あまり目にしない広場は、溢れんばかりの人間で埋め尽くされていた。ざっと数えただけで三百人以上はいるだろう。どの人間たちも楽しげに会話を交わし、これから始まる一大イベントを観戦しようと胸を躍らせていた。

 元々空き地だったこの土地を大道寺コーポレーションが買い取り、このイベントのためだけの私有地にしてしまって早三年。ついでにと周囲の土地も買収し、今では五百人以上が入れる巨大な広場になってしまった。

 当初は強引な土地買収行為に地域管理組合や役所の人間も反対したが、そこは世界に名だたる大道寺コーポレーションであった。買収した周囲の土地は本来の売り値の実に数倍で買い取り、コンサートでさえ開催できるよう改築した広場は地域発展のために無料で貸し出す約定も交わした。これにより地域住民の反対の声もなくなり、そうすると役所の人間も文句は言えない。そして第二回の大会が中止になったことで、約二年振りにこうして【綾園異種格闘市街戦】本選トーナメントが開催されることになった。

「お~い、正美!」

 祭りのようにごった返している人間たちを掻き分け、慎太郎は広場の隅にようやく辿り着いた。

「あ、お兄ちゃん。こっちこっち」

 ベンチに腰掛けていた正美は、慎太郎を発見するなり大きく手を振った。

「お前一人か? 花織ちゃんはどうした?」

 軽く息を切らせながら慎太郎は締めていたネクタイを緩めた。一般人よりも一回りは太い首には薄く汗が滲んでいる。

「もうすぐここに来ると思うけど……それよりもいいの? 仕事中に抜け出してきて」

「おいおい、電話でも話したろ? これも立派な仕事だ」

 そう言いながら正美の隣に座ると、慎太郎は胸ポケットから煙草の紙箱を取り出した。慣れた手つきで一本抜き出した煙草を口に咥えて火を点ける。

 慎太郎の口から吐き出された紫煙が空中に微妙なアートを描いたとき、ベンチの後ろから背もたれを足場に跳躍した人物がいた。

 正美は「きゃっ」と驚き、慎太郎は思わず咥えていた煙草を膝に落としそうになった。

「久しぶり、お二人さん」

 いきなり二人の前に出現した人物は花織であった。

 うなじの辺りで左右に分かれるように結んだ長髪。陽光を反射する大きな黒縁眼鏡のレンズに着用されていた上下とも漆黒のトレーニングウェア。そして両手には総合格闘技の選手が使うオープンフィンガー・グローブが装着され、今日一日だけで徹底的に使い慣れた感があった。

「花織ちゃん!」

 花織の姿を見るなり、正美はベンチから立ち上がって抱きついた。別れてから数時間しか経っていないのに、まるで何年か振りに再会する盟友のようであった。

 一方、不意に抱きつかれた花織は、治療を受けたとはいえまだわずかに残る脇腹の痛みを押し殺し、しっかりと正美の身体を受け止めた。

「花織ちゃん、実は君に話したいことがあるんだ」

 抱きついてきた正美を離すと同時に、慎太郎が真剣な表情で詰め寄ってきた。

 本来ならば一般人に捜査上の情報を漏らしていけないのだが、それでも慎太郎は自分が得た情報を花織に洗いざらい話した。

 だが慎太郎の話を訊いた花織には今いちピンとこない。

「殺し屋……ねえ」

 珍しく慎太郎が慌てていたというので何の話かと思いきや、ドラマや映画などでは頻繁に登場する殺し屋についてとは夢にも思わなかった。

 花織は首を動かして周囲の様子を一望した。

 客の入りは上々だった。広場の中央には二つの特設リングが建てられ、本物の格闘イベント顔負けの設備が整えられている。他にはたこ焼きや焼きソバ、焼きとうもろこしを売る屋台の姿も見られ、中には大通りから出張店舗してきた店も立ち並んでいた。自分たちの店の商品であるブランド物の服やバッグなどを出店で販売している。

「百歩譲って慎太郎さんの話が本当だったとして、この人間たちの中からどうやってその殺し屋を見つけるの? 多分……っていうか絶対不可能だと思うよ」

 慎太郎は大きな溜息を漏らしながらベンチに座った。頭を抱えてうな垂れる。

「そうだよな。絶対に無理だよな。今、桑島さんが上と掛け合ってくれてるけど、それもどうなるやら」

 まあ、慎太郎の気持ちもわかる。父親が警察官だったせいか、花織も一般人よりは警察事情について詳しかった。

 警察は事件が起こると目撃者などを探す聞き込み中心の「地取り」と呼ばれる捜査や、犯行者や被害者の人間関係や生活状態を探る「鑑取り」と呼ばれる捜査をする。

 その後、被害者から共通した情報や聞き込みなどの捜査により犯人の可能性が高い人物が浮かび上がると、家宅捜索令状を裁判所から取って本人の元へ向かう。そこで家宅捜索をして犯行に関する証拠品が見つかればその場で検挙となる。

 だが、この場合はどうなるのだろう? 慎太郎の話を聞く限り、警察上層部はまだ本気で動いている気配はない。それは目の前の慎太郎を見れば一目瞭然であった。

 慎太郎は決定的な証拠を摑んでいたが、それが地道に聞き込みした情報ではなくアンダーグラウンドから得た情報だから苦労していた。真実であれば良いが、もし間違いだったら洒落では済まない。

 無理もない。一連の連続殺人事件の犯行が、その殺し屋の仕業だかどうか警察はまだ特定できないのだ。その中で迂闊に動いてしまっては、犯人を逮捕しようがしまいがマスコミは軽率な行動に走った警察の不備を叩くだろう。

 花織は肩を落としている慎太郎の背中をポンポンと叩いた。

「まあ慎太郎さんの仕事の大変さもわかるけど、私は取り敢えずトーナメントに集中するわ。狙われる勇二のお父さんには悪いけどね」

 あっけらかんと不謹慎な言葉を口にした花織に、すかさず正美が口を挟んだ。

「ちょっと花織ちゃん。いくらなんでもそんな軽く言ったらダメだよ。もし本当だったら大変なことだよ」

「わかってるわよ。でも腐っても大道寺コーポレーションの社長よ。あれだけでかい会社の社長なら命を狙ってくる相手なんて今までたくさんいたんじゃない? だとするとそれなりに警備も厳重にしてるだろうし、そうなると殺し屋も簡単には近づけないわよ」

 花織がそう言った直後、ベンチに座っていた慎太郎がビクリと反応した。もちろん、その反応を見逃す花織ではない。

「慎太郎さん?」

 花織は顔をうつむかせたまま固まっている慎太郎を見下ろした。今の一瞬、背筋に嫌な感覚が過ぎった。自分の身に降り注いでくる冷たい悪寒が。

 慎太郎は顔を上げると、真剣な表情で花織を直視した。花織と慎太郎の視線が綺麗に交錯する。

「情報屋が言ってたんだ。殺し屋は大道寺清心を暗殺するのにこの【綾園異種格闘市街戦】を狙いにしていると。そしてこの本戦トーナメント上位入賞者には、スポンサーである大道寺清心が直々に面会する……」

 慎太郎の言いたいことがすぐにわかると、花織は勢いよく振り向いた。視線の先には巨大な電光掲示板が設置されている。

 慎太郎は口元で両指を絡めると、喉の奥から搾り出すように呟いた。

「もしかすると、殺し屋はすでに本戦出場者の中に紛れ込んでいるかもしれないんだ」

 花織は瞬き一つせず巨大な電光掲示板を見つめた。そこには、本戦トーナメントに出場する十六名の名前が煌々と表示されていた。

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