ハイド・アンド・シーク

真久部 脩

第1話:犬になった刑事


坂東ばんどう倫也ともやは、自分が死んだことを、意外なほど冷静に理解していた。


暗い路地のアスファルトに、自分が倒れている。

胸に広がる血の染み。

遠くでパトカーのサイレンが響くが、もうその音も薄れていく。


「……やっちまったな、俺」


闇バイト組織「ハイド」の運び屋を追っていた。

運び屋が組織の上層部に『収益』を受け渡す現場に向かうのを察知し、応援を呼ぶ暇もなく、尾行を続けていた。

全ては順調なはずだった…。

だが、角を曲がった瞬間、銃口が目の前に突然現れ——反射より早く、撃たれた。


「刑事ごときが!…」


そんな言葉が聞こえた気がすると同時に視界が白く霞み、重力から解き放たれる感覚。

浮遊感。

これが臨死体験というやつか……と妙に他人事のように思っていた。


目を開けると、そこは訓練場のような場所だった。

土と草の匂い。

犬の毛の匂い。

そして——ほんの少し香る、懐かしいシャンプーの香り。


「シーク、調子はどう? 今日はやる気ある?」


声の主を見上げた瞬間、心臓が跳ねた。


相田あいだ祐奈ゆうな

警察犬指導官で、俺が生前、何度か合同捜査で顔を合わせた女性だ。


真面目で、冷静で、笑うと少し子供っぽくなる——そんなところが妙に気になっていた。


(……なんで祐奈が? いや、それより俺は今——)


視界がやけに低い。

祐奈の腰あたりの高さから見上げている。

足元には毛むくじゃらの前足。

動けば爪が土を引っかく感覚。

視界の端には、やたらとよく動く尻尾。


「ワンッ!」


……吠えた。

自分の意思じゃないのに。

近くの水面に映ったのは、精悍な顔つきのジャーマン・シェパード。


(……犬? まさか、これ俺なのか?)


祐奈は笑顔で頭を撫でてくる。


「今日は元気そうね、シーク」


シーク——。

どうやらこの犬がそう呼ばれているらしい。

優秀な警察犬、と評判の。

そして今、その中にいるのが、俺……坂東倫也、というわけか。


訓練が始まった。

他の犬たちは障害物を軽々と飛び越え、匂いを追い、祐奈の指示に完璧に従っている。

俺も刑事として鍛えてきたはずなのに、この体はどうも勝手が違う。

飛び越えるつもりが前足を引っかけ、派手に転んだ。


「シーク?どうしたの?」


……いや、その「どうしたの?」はこっちの台詞だ。

俺は刑事だぞ。

こんな鉄棒くぐりでミスるなんて——あ、また転んだ。

周囲の犬が「大丈夫かよ」と目で訴えてくる。

屈辱だ。


昼休み、祐奈がベンチで弁当を広げる。

その香りに、腹が鳴る。

犬になったせいか、匂いの破壊力が半端じゃない。

気づけば尻尾がパタパタと勝手に動いていた。


(やめろ、落ち着け……)


「はい、シーク。今日は特別ね」


差し出されたビスケットを、反射的にパクリ。

甘い香りが広がる。

くそ、うまい……。


倫也の時代なら絶対に食べなかったはずの犬用おやつに、まさか感動する日が来るとは。


夕方。

祐奈は俺をパトカーに乗せ、ある場所へ向かった。

そこは——俺が昨日、坂東倫也として息絶えた現場だった。


「……ここで、坂東さんが…」


祐奈の声は少し震えていた。

彼女が俺の死を悲しんでいる。

その事実が胸に熱く広がる。


だが同時に、今の俺はその本人であることを伝えられない。

このもどかしさに、犬の胸が詰まった。


地面に鼻を近づけると、乾いた血の匂い、火薬の残り香、そして革製バッグの香りが鼻を突く。


(…この匂い…祐奈が持ってたバッグと似た香りだ!)


俺は祐奈の私物のバッグに向かって吠え、必死に取っ手を噛もうとした。


「ちょっと! 何するの、シーク!」


祐奈が慌ててバッグを遠ざける。

俺は吠えるのを止め、地面に鼻をつけ、もう一度吠えた。

祐奈はその様子をじっと見つめていた。


「…不思議ね。普通、犬は新しい匂いには興味を持つけど、慣れた匂いにはこんな反応しないはずなのに」


祐奈はバッグを慎重に袋へしまった。


「もしかして、何か違う匂いを感じた?」


俺は尻尾を振った。

いや、振ってしまった。

祐奈は小さく笑い、バッグを抱えて言った。


「よし、シーク。あなたの勘、信じてみる」


その言葉が、胸の奥に深く響いた。

犬になっても、刑事としての俺はまだ生きている。

この鼻と足がある限り、まだ戦える。


ただ――祐奈が俺の正体を知る日は、まだ遠そうだ。


(第1話 終)

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