オタクになりたい少女とオタクを辞めたい僕の話

安芸哲人

オタクになりたい少女と、借りパクされた僕の本

 午後の教室に、教科書を読み上げる涼しげな声が響き渡る。


「We all want to find something special about ourselves.」


 英語の時間は僕にとって特別な時間だった。


 僕の左斜め前に座る彼女、『村上紗良』から発せられる英語の発音はまるでネイティブで、「ディス・イズ・ア・ペン」のような日本語然とした発音とは一線を画していた。


 彼女の流暢な発音を、一部の連中は揶揄したりしたが、彼女はそんな事を気にする様子もなく、常に凛とした表情で教科書を熱心に読み上げるのだった。


 英語の教師もそんな彼女の発音を好み、英語の時間に彼女が教科書を読み上げるのはもはや恒例行事となっていた。


「Trying new things, like reading a book or talking to someone new, can help us grow. 」


 いかにも教科書に出てきそうな真面目な文章、それでも彼女が読み上げると不思議と魅力的な言葉に聞こえてくる。


 ちら、と教科書を読み上げている彼女に視線を送る。

 手入れが行き届いている、黒くて艶やかな長い髪、教科書を見つめる知的な眼差し。


 僕は、彼女のその凛とした横顔が好きで


 彼女の口から発せられる流暢な英語の発音が好きで

 彼女の涼しげな声が好きで

 彼女の声が響くたび、胸のどこかが締め付けられるようだった。


「But growth sometimes brings unexpected challenges. With each step we take, we learn more about who we are and who we want to become.」


 彼女が読み上げると同時にチャイムが鳴る。


 特別な時間が終わってしまう寂しさを感じながら席に座る。彼女の朗読を永遠に聴ければ良いのに。楽しい時間ほど、すぐに終わってしまうように感じてしまう。


 ◇


「ねーねー、ちょっといいかな?」


 その日の放課後、僕が帰宅の準備をしていると、クラスの女子『高坂あかり』が話しかけてきた。


 あかりはいわゆる「普通の女子」だ。


 性格は明るく社交的、休み時間には友人達と談笑し、昼にはお弁当を友人達一緒にたべ、放課後は友人達とカラオケに繰り出す。

 おしゃれにもそれなりに気を遣うが校則違反などはせず、許容される範囲内で楽しむ。成績は可もなく、不可もなく。教師に睨まれる事も無ければ、優遇されるような優等生でもない。


 そんな「普通の女子」だ。


(何の用だ……?)


 一瞬たじろぎ、心の中で警戒する


 もとよりそんな「普通の女子」が、自分のような、休み時間には誰とも話さず本ばかり読んでいるような、居ても居なくても誰も気づかない空気のような人間に興味を示すとは思えなかった。

 事実、あかりとクラスメイトになって久しいが彼女から話しかけられたのはこれが初めてだ。


「な、なに?」

 我ながら情けない反応だが、いかんせん突然の襲撃によりこのように反応するのが精一杯だった。


 自分の内心が気取られてはいないだろうか……細心の注意を払って取り繕おうとするが、そんな事が出来るわけもなく、自分の焦りや疑念はあかりにも伝わっていただろう。


「どうしたの?ちょっとキョドッてるけど」

 あかりはあたかも私たちずっと友達でしたよね?というような態度で振る舞う。そんな自然な態度がますます自分を萎縮させる事をわかっているのだろうか?


「あははー、やっぱり面白いね、神山くん」


 どうやら僕の苗字ぐらいは知っているようだ。まあ一応クラスメイトなのでそれぐらいは知っていてもおかしくはない。ただ、何が面白いのだろうか、こっちは何も面白くない。


「は、はは、そうかな……?」

 と情けない返答をした僕に、あかりが告げた言葉は予想の範囲外だった。


「わたし、オタクになりたいんだよね〜。神山くんってオタクでしょ?ちょっと教えて欲しいんだ、オタクってどうやったらなれるの?」


 彼女の無邪気な言葉に自分の心が抉られるのを感じる。


 そんな「オタマジャクシってどうやってカエルになるの?」みたいに聞かないでくれ。


 どうやったらなれる?だと?こちとらなりたくてなっているわけじゃない。いや、それでも僕が「自分オタクですので!」と宣言しているならまだしも、周りが勝手に「あいつオタクだよね」とレッテルを貼っているだけじゃないか!


 むしろ「オタクってどうやったら辞められるのか」を教えてくれ。


 喉まで出かかった声を必死で飲み込み、なんとか声を絞りだす。


「い、いや、僕なんてまだまだ……」


「そんなことないでしょ?いっつも本読んでるし、なんか色々詳しそうだし」


「う、うーん、オタクと言ってもいろんなオタクが居ると思うけど、高坂さんは何のオタクになりたい……の?」


「え!?オタクにもそんな色々あるの!?」

 彼女は目を丸くする。


(ちっ、これだから素人は……)

 僕は心の中で舌打ちを100万回ほど打つ。


「ま、まあ、やっぱり自分が好きな物とか、作品とか、そういうのが無いと……」


「ふーん、そうなんだ、うーん、特に思いつかないなぁ……あ、じゃあ神山くんが今読んでるそれ、貸してよ!」


 僕はゴクリと唾を飲む。

 これを「貸せ」だと……?

 机の中の本に、ちらと視線を送る。


『前世で課金しまくったゲーム世界に転生したら、なぜか女性キャラの好感度だけ引き継いでいたので王女からメイドまで全員デレデレな件』


 僕の目に、欲望と妄想をこれ以上なくストレートに表現したタイトルと、露出度の高い衣装に身を包んだ、アニメ調の女性キャラクターが描かれた表紙が目に入る。


「あー、これまだ読んでる途中だから……」

 いや、ダメだ、他はともかくこれはダメだ。


「えー、そうなの?じゃあ他に何かおすすめあったら貸して欲しいな〜」


「うん、わかったよ、明日持ってくるから」


「やった!ありがとう、約束だよ!やっぱり持つべき物はオタクの友達だね」


 相変わらず「前から友達でしたが何か?」というようなあかりの態度に呆れながらも、僕はどの本なら彼女の興味を引けるかを真剣に悩んでいた。


 ◇


 翌日、僕は一晩中悩みに悩んだ末に一冊の本を鞄に入れ登校した。


『空の王国と蒼穹の乙女』


 過去にアニメ化された事もある人気のシリーズだ。

 いわゆる王道のファンタジーで、主人公だけではなくヒロインも活躍するので女性ウケも悪く無いだろう。入門編としてはこれ以上ない選択。あとはあかりにいつ渡すかだ。


 もちろん、休み時間に友人と談笑している彼女に、自分から声をかけるような事が出来るわけもなくじっと機をうかがう。


「もってきてくれた?」


 放課後、人もまばらになった教室であかりが話しかけてきた。


「ああ、これ」と本を差し出す。


「あー、これなんか見たことあるかも?昔テレビでやってたよね?」


「そうそう、それの原作。最初はとっつきやすい奴が良いかと思って」


「そうなんだ〜、ありがとね。早速家帰って読んでみるよ!」

 手を振りながらあかりは颯爽と教室を出て行く。


 僕は間抜けづらで手を振り、あかりの後ろ姿を見送っていた。


 その日の夜、僕はいつになく期待と興奮と妄想(はいつもの事だが)に包まれていた。


(もしかして、この本がきっかけで仲良くなって、その後に色々な展開があるのでは……?)

 ベッドに横になるがなかなか寝付けない。


(次はどれが良いだろうか、普通に続きを読んでもらうのが良さそうだけど、あれに興味を示すならこっちも悪く無いかもな……そのうちアニメも見たいって言うかも……そしたら家で一緒に観ちゃったり……?)


 もちろん、そんな都合の良い展開が待っている訳もなく、その後1週間、あかりからは何の反応もなかった。


 僕も自ら感想を聞くような事はせず、何事もなく過ぎ去ろうとしていた。


 その日の放課後の教室は、いつもより少し静かだった。窓から差し込む夕陽が、机の上に長い影を落としている。僕は鞄を肩にかけ、教室を出ようとしていたが、ふと足を止めた。廊下の向こう、階段の踊り場にあかりの姿があった。


 彼女はいつもの友人たちに囲まれ、楽しげに笑っている。手に持ったスマホを覗き込みながら、「え、うそ、めっちゃ面白そうじゃん!」と弾んだ声が響く。


 昨日放送されたバラエティ番組か、誰かがシェアした動画の話だろうか。彼女の髪が夕陽に照らされて、きらきらと揺れている。


 僕は、教室のドアの影に半分隠れるようにして、じっとその光景を見つめた。


 あかりの手には、僕が貸した『空の王国と蒼穹の乙女』なんてどこにもない。もう読んだのか、それともカバンの底で忘れ去られているのか。いや、きっと後者だ。あの本のことなんて、あかりの頭には一瞬も浮かんでいないんだろう。


 あかりが友人たちと笑いながら階段を下りていく。背中がどんどん遠ざかる。僕は、ただ黙ってその後ろ姿を見送った。手に持った鞄の重さが、いつもより少しだけ重く感じられた。


 あかりの僕に対する態度は「あなたってこのクラスに存在しましたっけ?」と言わんばかりの、つまり「オタクになりたい」と僕に伝える前の彼女の態度に完全に元に戻っていた。


 あかりにとっては一瞬の気の迷い。もしかしたら「オタクになりたい!」なんて言った事を後悔しているのかもしれない。僕との会話は既に彼女の中で記憶から抜け落ち、同時に僕が貸した本も記憶から抹消されているのだろう。


 無論、僕に友人に囲まれ談笑している彼女に近づき「貸した本返して欲しいんだけど」などと言える筈もない。沈黙のみが僕の武器だ。


 一時の気の迷いで「オタクになりたい少女」と、生来の気質と周囲のレッテル貼りにより「オタクな僕」との邂逅が幸福な結末になる訳もなく、ただ「僕の本が借りパクされた」という結果を残すのみであった。


 家に帰って僕は本棚を見つめる。あかりに貸した1冊分のスペースがそこにあった。


 さて、次はどんな本でこのスペースを埋めようか。


「愛」と「勇気」ではなく「想像力」と「妄想」だけが僕の友達だ。物語は無数にあり、可能性も無限大だった。


 ◇


「あのー、ちょっといい……かな……?」


 高坂あかりに声をかけられ、僕はドキッとした。


「あ、ああ、高坂さん、どうしたの?」

 普段の彼女の快活な姿とは異なる切迫した表情で言い淀みながら彼女は続けた。


「いや、あの、この前借りた本を返しに来たんだけど……」


 ばつが悪そうにあかりが続ける。


「あー、そういやそんなこともあったね。」

 1ヶ月前に「オタクになりたい!」と突然僕に相談してきたあかりに、一冊の本を貸していた。その後特に反応も無かったため、興味がわかなかったのかな?とそれ以上深追いをせず、たった今彼女に言われるまでその事を忘れていた。


「ごめんね、遅くなっちゃって。実は借りた後にあの、その……」


「……どうしたの?」


 言いづらそうにしている彼女に僕がそう促すと、彼女は決心したようにぐっと手を握ると言った。


「えっと、実は本、無くしちゃって……で、新しく買って返そうと思って探したんだけど同じタイトルなのになんか見た目がちょっと違うやつしかなくって……」


「あー、高坂さんに貸したやつ初版だし、今はレーベル自体が変わってるから」


「ほんとごめんなさい。」

 と彼女は深々と頭を下げながら両手で恭しく本を差し出した。


『空の王国と蒼穹の乙女』その第一巻、発売当時はS文庫だったが今はD文庫から出版されている。


 旧S文庫版の初版は中々手に入らないし、続刊と見た目が違うのが1冊並ぶと本棚の見栄え的にもよろしくない……中身はほぼ同じとはいえ、とても『等価交換』とは言えない代物。


 ただ、レーベルを移籍しての再出版にあたって、表紙も後書きも書き下ろしなのは評価ポイントだろう……と無理やり自分を納得させる。


「中身はほぼ一緒だから。わざわざ探してくれたんだね、ありがとう。」


 半分は本心、半分は社交辞令でこう答える。


「ごめんね〜、ありがと〜」

 と彼女はやっと表情を崩す。その表情には先ほどまでの切迫感は無く、いつもの彼女の明るい表情に戻っていた。


「でも流石だね〜君がおすすめしてくれただけあってとっても面白かったよ」


「え、読んだの?」


「そりゃせっかく借りたんだから読むでしょ!オタクの道も一歩からってね!」

 彼女は胸を張り何故か自慢げにそう言う。


「はー、それは良かったけど、そう言えば高坂さんって何でオタクになりたいの?」

 僕の言葉にあかりの目が一瞬泳いだが、出てきた言葉はそれを感じさせないものだった。


「なんか、みんなと同じじゃつまんないなって思ってさ、オタクってなんか自分だけの世界持ってる感じでカッコいいじゃん?」

 かっこいいならもっとみんなこぞってオタクになろうとするのでは?と若干疑問を感じたが、突っ込まなかった。


 それ以上に、僕は彼女が本を読んで「面白い」と言ってくれた事が嬉しかった。


「次もなんか読んでみる?」


「えー、いいの?じゃあ続き読みたい!」


「いいよ、明日持ってくるね、でも今度は無くさないでよ?」


「ありがとー、今度は気をつけるよ〜、あ、ゆうこ達と約束してたんだった。じゃ明日ね〜」


 と言うなり、あかりは手を振りながら教室の外に駆け出して行った。


 席に一人残された僕がふと左斜め前の席に目をやると、その席の主と目がった。その席の主、村上紗良は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに僕に微笑みかけた。窓から差し込む午後の光が彼女の黒髪を柔らかく照らし、その輪郭まで淡く縁取っていた。


 英語の教科書を見つめる知的で、真剣な眼差し、その眼差しが僕に向けられているだけで自然と胸が高鳴るのだった。


 こらえきれず僕はすぐさま目を逸らす。

(……なんだ、高坂さんと話してたの見られてたのか?)


 机に突っ伏し、胸の高鳴りを抑えながら自問する。

(いや、見られてたから何だと言うのか……)

 と自分を落ち着かせる。


 数分後、彼女の席に目を向けた時、そこには既に席の主の姿は無かった。

 

 窓の光だけが、まだ彼女の席を照らしていた。

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