第十二夜 アオバさんの深層
深いところから浮かび上がってくるように、私の意識は目を覚ました。
ゾクゾクっと何か分からない感覚の波が打ち寄せ、私は生の悦びに打ち震えた。
生きている! そのことが奇跡のように感じられる。生まれ変わったんじゃない、生まれたんだ。私という人間は、今、生まれた。
周りは温かい液体で満たされている。棺のような箱に、私は一糸まとわぬ姿で横たわっているらしい。上体を起こせばすぐにでも外へ出られそうだが、腕に力が入らない。全能感もあっという間に薄れ、現実的なことばかりが気になりはじめた。
ここはどこだ? 暗くて何も見えない。棺だけがライトアップされているので、裸なのが急に恥ずかしくなってきた。外に出られたらまず服を探すことにしよう。
どうして水中なのに息ができるんだ? それは、これがただの水ではないからだ。私の生命を維持するための液体。私は呼吸しているわけではなく、液体が肺を出入りする動きを補助しているに過ぎない。あぁ、上体を起こさなくて良かった。このまま空気を取り込もうとしたら、むせたどころじゃない気管と肺の痛みに襲われるところだった。棺から出るのは、しかるべき処置を受けてからにしておこう。
どうして私はこんなことを知っている? もちろん、同意の上で実験に参加したからだ。何の? ……うーん、そこが思い出せない。順を追って考えていこう。どうせ何も出来ないのだから。
始まりは、そう、白石博士の提案だった。
「*$&#¥@を試してみないか?」
私は、休学届を書く手を止めた。落陽の光が窓から差し込んでいたことを覚えている。あの病室は西向きだったのだ。あぁ、こんなつまらないことは覚えているのに、肝心なことが思い出せない。
「そしたら可能性はあると思うんだ。いま全ての希望を捨てなくたって、決められないことは先延ばしにすればいい。未来の君が考えればいい。僕はそうやって生きてきた」
あなたの生き方が何の参考になるんだ。最初に出てきたのは、こんな
あなたと私では何もかもが違う。あなたは工学部の教授で、私は文学部の学生。あなたは世間に一目置かれる有名人だが、私は二十二歳の若さで余命宣告を受けたこと以外、取り立てて特徴がない一般人。
そもそも今日の今日まで面識すらなかったくせに、他人の人生に堂々と首を突っ込めるその厚顔無恥を私も見習いたいところだ。
「あと一年あるんです」
「一年後には死ぬ」
「余命があと十年や二十年延びたって、それが何になるんですか。生きているものはみんな死ぬ。病気か事故か衰弱か、その程度の違いしかないのなら、私はリスクなんて負わず――」
「そうか、分かった」
博士はもう立ち上がり、病室の入り口に視線を向けていた。
「え……」
「悪いが病人のひがみに
「で、でも――」
「被験者の候補はごまんといる。君がやらないなら、僕は他を当たるだけだ。やるのかやらないのか、今、ここで決めてくれ」
ラストチャンス。
私の胸の爆弾が、導火線の火を今か今かと待ち構えている。早く弾けたいと疼いている。今ここで彼の手を取らなければ、私は心臓の病で数年のうちに必ず死ぬ。でも、彼を信じれば? 着たかった服が着られる。欲しかったゲームで遊べる。恋愛だってできるかも知れない。病気が判明するまでは、私も普通の女の子だったじゃないか。今でもまるで、夢の中にいるような気分になる。あと一年で死ぬなんて、冗談じゃない。生きたい。私はまだ生きたいんだ。
「……やりません」
跳ねる心臓を口の中に押し込むように答えた。
「残念だ」
彼は一度も振り返ることなく、茜色に染まった病室を立ち去った。
……そうだ。私はあのとき、確かに断った。なのに今ここにいる。妙な棺に入れられて、ぬるい液体に満たされて、謎の管で全身を貫かれている。
何かあるはずだ。二つの風景をつなぐミッシングリンクが。棺、病室……、誰かがお見舞いにやって来た。あれは、男の子。近所に住んでいた小学五年生のたっくん。
「アオバ先生……死んじゃうの?」
そんな目で見ないで。
声は泣いた後みたいに
「オレ、アオバ先生がいなくなるなら、勉強がんばらないし、早起きもしないし、忘れ物ばっかりするから、だから、死なないでよ」
そんなこと言われてもなぁ。先生だって死にたくないし。……先生? 私は教師だったのか? その割に、生徒と聞いて思い浮かぶ顔がたっくんしかない。呼び方もいやに馴れ馴れしい。
「ねぇ、先生。アオバ先生」
そうか。近所のおじさんに頼まれて、たっくんの家庭教師をしていたんだ。ほとんど雑談ばかりだったけれど、たっくんと居るのは楽しかった。童心に返ることができた。
「じゃあ……」
私は提案した。
「待っていてくれる?」
「え?」
「十年でも二十年でも、先生が遠い場所から帰ってくるまで。たっくんは待って、アオバ先生を迎えてくれる?」
「うん。待つ」
「約束だよ?」
「うん」
私とたっくんは指切りをした。
そして私は、彼のために決意したのだ。
稀代の天才、白石博士の新発明――
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