神降ろしの少女、最後の祈り
唯野晶
雑踏の世界の無音の少女
第1話 雑踏の世界の無音の少女_1
「はぁ……」
放課後の教室に、沈み始めた陽の光が斜めに差し込んでいた。橙色に染まった光線が、黒板や机の上に長い影を作り出している。窓際の席で拓真はぼんやりと外を眺めていた。空は徐々に色を変え、澄んだ青から深い紺へと移ろいつつあった。校庭では部活動に励む生徒たちの元気な声が聞こえるが、教室内は静かだった。クラスメイトたちの大半はすでに帰り支度を済ませ、数人だけが残って他愛もない会話に興じていた。
「ねえねえ、今度の日曜日、新しくできたカフェに行こうよ」
女子の一人が興奮した声で言った。
「あー、噂の!インスタ映えするって言ってたよね」
別の女子が笑顔で応じる。
「私も行きたい!」
彼女たちの明るい声が教室に響き渡る。
拓真は目を閉じた。何かがきっかけで現れる「目」の力。彼は今、それが発動しないよう静かに呼吸を整えていた。教科書を手に取り、机に伏せるようにして顔を隠した。今はわずかな興奮でも彼の視界を変えてしまう。
――――見えなければいいのに……
拓真は心の中でつぶやいた。
自分でもよくわからない力だった。中学生の頃から時折訪れるこの感覚。普段は普通に見えるはずの人々が、感情の高ぶりとともに別の姿に見えてしまう。まるで本当の姿が剥き出しになるかのように。
特に強い感情――――怒りや悲しみだけでなく、強い喜びや期待でさえ、引き金になった。
笑顔の下の計算高さ。
言葉の裏側にある本音。
親しげな態度の下に潜む優越感。
恨み、妬み、嫉み……。
見たくもないものが見えてしまう。拓真は左手で強く右手を握る。「目」の力が強まる時、それを押さえつけようとする本能的な動きだった。
この地域には特殊な歴史がある。拓真が住むこの町には、何か目に見えない古い力が流れているらしい。そういった噂を、祖母から聞いたことがあった。「古くから魔が生まれやすい土地」だと。祖母は山間の神社で育ち、そういった話をよく知っていたが、もう開発も進み高層ビルやホテルも立つようになった今、拓真はそれを単なる過去の話、迷信だと思っていた。しかし今では少し違う。彼の「目」の力が目覚めたのも、この町の何かが関係しているのかもしれない。
二年と少し前、中学二年生の冬、突然この力が現れたときには、何が起きたのかが理解できなかった。当時の記憶は曖昧で、どこかわからないが雪が降り積もる道だけはよく覚えている。それ以外はただ強い恐怖と混乱の感覚だけが残っていた。何かに襲われた記憶がある。黒い霧のようなもの。恐怖で足が動かなくなった瞬間。そして誰かが彼を助けてくれた。白い布を持ったその人の顔は思い出せない。でも、その出来事がきっかけで彼の「目」が顕現したのだと、本能的に理解していた。それ以来、この「目」と思い出せない出来事がずっと彼を苛んでいた。
「あー、やっぱりまだいた」
声に振り向くと、美咲が立っていた。陽光に照らされた彼女の短い髪は、金色に輝いているようだった。幼馴染の彼女はクラスでも人気者だ。明るくて活発で、誰とでも打ち解けられる性格。陸上部の部長で、生徒会のメンバーでもある。一瞬、拓真は目を合わせることを躊躇した。今日はまだ「見えて」いない。見たくもない。
「ああ、ちょっと考え事してた」
「また一人でボーッとして。みんなとカラオケ行くって言ってたじゃない?」
幼稚園の頃から近所に住む彼女とは、兄妹のように育ってきた。ショートカットの髪型と活発な性格で、いつも拓真を引っ張っていくような存在だった。
「今日はパス。なんか、疲れててさ」
「私もセッティングに協力したんだからこっちの顔も立ててよね」
美咲は少し不満そうに頬を膨らませた。でも、口ではそんなことを言いながら優しさがにじみ出るその仕草は子供のころから変わらない。
「高校生活ももう半分終わっちゃうのに、思い出作らなきゃ」
美咲は拓真の机の端に腰掛け、彼の顔をのぞき込むようにした。いつもの距離感、心地よい距離感なのに、今は少し距離を置きたかった。この「目」が発動してしまったら、彼女にも何か見えてしまうかもしれない。それが怖かった。美咲だけは、「見たく」なかった。ずっと避けてきた、自分に課した枷。
「またそんな生徒会のメンバーらしいこと言って」
拓真は少し皮肉っぽく言った。
「いつも忙しそうだね、陸上部の部長兼生徒会の書記さん」
美咲は目を丸くした後、クスリと笑った。
「そんなこと言うなら拓真だって中学の時生徒会長だったじゃない」
「あれは昔の話だよ」
「あー懐かしいなぁ、拓真が生徒会長で、私が副会長」
美咲は懐かしそうに目を細めた。
「そんな逆高校デビューなんてしてないで、また生徒会長やればいいのに。昔の拓真を知ったらみんな驚くと思うよ?実は拓真が明るくて、活発で、みんなをまとめるのが上手な――――」
「で、好奇心に振り回されて大失敗する、だろ?」
拓真は苦笑い、美咲も昔を思い出して同じように笑った。
確かに彼は変わった。中学2年の冬、拓真は可能な限りすべての関係を断った。部活も辞めて、生徒会長も辞めて、周りからは急に変わったように見えただろう。拓真自身、あの時のことはあまり思い出したくなかった。
「受験があったからだよ」
拓真はいつものように言い訳した。同じ言葉を何度言っただろう。
「忙しかったんだ。受験戦争ってやつの弊害だって」
「もー、そればっかり」
美咲は軽く拓真の肩を叩いた。
「いつまでその言い訳使うつもり?そろそろ言い訳のパターンも増やしたら?」
拓真もつい笑みがこぼれた。
美咲との掛け合いはいつもこうだった。彼女はいつも彼の心の闇を軽やかに照らしてくれる。幼馴染の特権というか、美咲だけはこんな「目」なんてなくても彼の心を読んでいるのかもしれない。
「あのさ――――」
美咲が何か言いかけた時、廊下から騒がしい声が聞こえてきた。
「マジで歌上手いんだって!」
「あの子、性格も良いしね」
「でも、なんか近寄りがたい雰囲気ない?」
思わず耳を傾ける二人。転校生の話だろうか。先週から噂になっている2年B組の新入生のことかもしれない。少しだけ二人の会話に空白が生まれた。
「ねえ、話変わるけど」
美咲は突然、バッグから何かを取り出した。
「はい、これ。最近元気ないから、お守り代わり」
手のひらに乗せられたのは、青と白の糸で編まれた少し太めの紐だった。丁寧に編まれており、端が房状になっている。
「何これ」
拓真は面食らったように尋ねた。
「ミサンガよ。昔こういうの流行ってたんだって」
美咲は少し照れくさそうに笑った。
「最近うちの部でも流行っててさ」
「これどうすんの?財布にでも入れとけばいい?」
「ちがうって。腕とか足とかに結ぶの!で、切れたら願いが叶うんだって」
「そんなの恥ずかしいって。返すよ」
内心では嬉しさはあったものの照れの方がわずかに勝った。
「いいから受け取りなさいよ!せっかく編んだんだから」
美咲は拗ねたように頬を膨らませた。拓真は少しだけミサンガに目を落として鮮やかな白と青のグラデーションを見つめた。手先がそんなに器用じゃない美咲のことだ、きっと時間もかかったことだと思う。
「ありがと。後でつけとくよ」と言い、ポケットに仕舞おうとしたが、美咲は突然立ち上がり彼の右腕を掴んだ。
「そんなこと言って!ちゃんとつけなきゃ意味ないんだよ。ほら貸しなさい」
彼女は拓真の制服の袖をまくり上げ、右手首にミサンガを巻き始めた。拓真は抵抗しようとしたが、美咲の強引さに負け、されるがままになっていた。
「ちょっと、待てって……」
「いいからじっとしてて!」
彼女の指先が拓真の肌に触れるたび、妙にくすぐったく感じた。近くで見る美咲の横顔は真剣で、細い眉を少し寄せながら集中している。その姿を見ているうちに、拓真は何も言えなくなってしまっていた。
「はい、できた!」
美咲は満足げに微笑んだ。
「自分で外しちゃだめだからね!」
「こんなぎちぎちに結ばれたらほどけねーって……」
彼の右手首には、青と白の糸で編まれたミサンガがしっかりと結ばれていた。それに、なんだか美咲の指先の温もりがまだ残っているような気がした。
「実はね、さっき教頭先生に呼び出されたんだ」
美咲がまた急に話題を変えた。
「新しい生徒会の企画について相談があるって」
「ふーん。そうなんだ」
拓真は適当に相槌を打ちながら、右腕のミサンガを撫でていた。
「拓真も手伝ってくれない?来週までなんだけど一人じゃ大変で……」
「あー、はいはい。それくらいなら別に……」
拓真の言葉が途中で途切れた。
そこで、「それ」が起きた。
美咲の表情の周りに何かが見え始めた。
不安。そして孤独。
彼女の笑顔の裏に隠された感情が垣間見えた。いつも明るく振る舞いながら、内側では何かを恐れているような感情。
「どうしたの?変な顔して」
美咲が首を傾げた。
「いや、なんでもない」
拓真は慌てて視線をそらした。
「もう、変なの。きっともうみんないつものお店にいるけど、本当に来ないの?」
「ごめん、今日は本当に……」
「……そっか!じゃまた明日ね」
「うん。俺も帰るわ」
美咲は先に立ち上がり、扉の方へ何歩か歩いた後振り返って、カバンをもって立ち上がったばかりの拓真に笑いかけた。
「……あのさ」
美咲は少し躊躇った後、今日一番の笑顔で言った。
「今度の休みに、桜公園の方に行かない?新しいカフェができたんだって。ずっと行ってみたかったんだ。空いてたらでいいんだけど……」
拓真は驚いた。いつもならもっと強引に「行くわよ!」なんて言ってこっちの気など知れずに連れまわしてくる美咲がこういう誘い方をするのは珍しかった。
「ああ、いいよ。予定ないし」
「ほんと?約束だよ」
美咲の笑顔が、教室に残った夕日の光に照らされて輝いた。拓真は思わず目を細めた。彼女の周りの靄は、先ほどの不安とは違う、期待に満ちたような強い光を放っていた。
二人は教室を出て、廊下を歩きながら他愛もない話をした。明日の授業のこと、陸上部の練習のこと、先週見た映画のこと。表面上は普通の会話だったが、拓真には、美咲の周りの靄がいつもより少し明るく揺れているのが見えていた。
校門を出る頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。帰り道を分かれる交差点で、美咲は振り返った。
「ミサンガ、大事にしてね」
「ああ」
美咲が手を振って走り去った後、彼はミサンガをじっと見つめた。青と白の糸が、夕暮れの光を受けてかすかに輝いている。まるで「何か心配事があったら、このミサンガを見て、私のこと思い出してね」なんて美咲の声が聞こえる気がした。
「ありがと」
小さくつぶやきながら、拓真は家路についた。夕暮れの街並みを歩きながら、彼は時々右腕のミサンガに目をやった。
――――見えなければいいのに……
こんなものが見えなければ、もっと普通に生きられるのに。この何年か、ずっと思ってきたことだった。でも、決してなくなることは無かった。その「目」は彼の一部だ。逃げられない現実。
夕焼けに染まる空を見上げ、拓真は深いため息をついた。目の力が顕在化してから二年。これは彼の人生を変えてしまった。ミサンガを握りしめる左手に力を入れ、彼は一歩一歩、帰宅の道を進んでいった。
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