スナックでの一夜

「夏希(なつき)! ちょっといい加減に手伝いなさい!」


母親の声が廊下中に響き渡る。


大学生の俺、夏希は、寝転んでゲームに夢中になっていたが、母親のその声に渋々腰を上げた。


「何だよ、また手伝いって? 俺、接客とか向いてないからな」


「分かってるわよ。でも今日は人手が足りないの。少しお酒運ぶくらいでいいから、早く準備してちょうだい」


そう言われ、適当に黒シャツにスラックスを選んで着替えると、スナック「マリア」に向かった。


母がこの店を経営していることは知っていたが、普段はできるだけ関わらないようにしていた。


しかし、今日はどうやら逃れられないらしい。


店に着くと、母が俺を待ち構えていた。


だが、俺が思っていた「ボーイの仕事」とは全く違う話が飛び出した。


「その格好じゃダメね。お客様にサービスしてもらうにはもう少し華やかにしないと」


「え? これで十分だろ?」


「違うのよ。今日は特別なお客様がいらっしゃるの。あなたも女の子っぽい顔してるし、ちょっとだけ変身してちょうだい」


母が手に持っていたのは、ドレスと化粧道具の数々だった。


「は? 冗談だろ!?」


「文句言わない! 大丈夫、意外と似合うから」


俺は抵抗したが、母の押しに負けてしまった。


女装なんて生まれて初めてだ。


最初は恥ずかしいやら居心地が悪いやらで、気が気じゃなかった。


しかし、母の手際の良い化粧とスタイリングで、鏡に映った自分の姿を見て言葉を失った。


そこに映るのは、いつもの俺じゃない。


少し色っぽい、女性のような姿がそこにあった。


「お前…本当に俺か?」


「ほら、言ったでしょ? お客様にウケるわよ。名前は『夏子』にしておきましょうね」


「待て、名前まで変えるのかよ!」


店が開店し、次々に常連客が来店する。


俺は不安でいっぱいだったが、母の指示に従い、ドリンクを運んだり軽く会話を交わしたりするうちに、次第に慣れていった。


「おや、今日は新しい子がいるじゃないか」


「可愛いねぇ、名前は?」


「えっと…夏子です」


そう名乗ると、客たちが一斉に笑顔になり、俺をからかうような視線を送ってきた。


正直、恥ずかしくて仕方がなかったが、母の視線が鋭く光っているのを感じ、仕方なく愛想を振りまいた。


「夏子ちゃん、ちょっと一杯付き合ってくれる?」


「え、いや、僕じゃなくて…」


「『私』だろ?」母の声がすかさず飛ぶ。


「…わ、私ですか?」


その後、軽い会話のやり取りが続いた。


客の中には、冗談めかして手を握る者もいたが、俺はできるだけ笑顔を保とうと努めた。やがて、母が助け船を出してくれた。


「夏子、ちょっと裏で休んできなさい。いい感じよ」


裏に引っ込んで一息つくと、自分が思っていた以上に接客が上手くいっていることに驚いた。


慣れない環境に疲れはしたが、客たちが笑顔で接してくれるのは、少し悪い気がしなかった。


そのうち、母が満足そうにやってきた。


「よくやったわね。今日はこれで終わり。お疲れ様」


「本当に…もう二度とやらないからな」


「そう言わずに。意外と向いてるんじゃない?」


「冗談じゃないよ」


そう言いながらも、俺は少しだけ「夏子」として接客した時間を思い返していた。


不思議な一夜だったが、悪い経験ではなかったのかもしれない。

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