心の中のうさぎ

彼は浴衣を手に取り、重たそうにそれを眺めた。


友人に頼まれて仕方なく、浴衣を着ることになったが、どうしても気が進まない。


自分は男で、普段はスーツやカジュアルな服装がメインだ。


浴衣、それも女性用のものを着るなど、考えもしなかった。


「本当にこれを着るのか…」


彼はため息をつき、鏡の前に立った。


友人の頼みを断りきれなかった自分が情けない。


だが、その反面、どこか心の中で興味が湧いているのも事実だった。


「一度くらい…試してみてもいいかもな。」


そう自分に言い聞かせると、彼は浴衣に袖を通した。


柔らかな布地が肌に触れる感触は、普段の洋服とは全く違う。


ふんわりとした香りが漂い、まるで異世界に足を踏み入れたかのようだった。


「なんだか…悪くない。」


驚くべきことに、鏡に映る自分の姿は想像していたほど奇妙ではなかった。


髪を軽く整え、帯を締めると、意外にも女性らしい姿に変身していた。


彼は思わず、くすりと笑った。


「これでいいのか?」


その瞬間、彼の心にある種の高揚感が生まれた。


まるで自分が誰か別の人間になったかのような感覚だ。


普段の自分では味わえない、この感覚。


彼は一歩、また一歩と、部屋の中を歩き回った。


浴衣の裾が揺れ、軽やかな足取りが自然と生まれる。


「不思議だな…。こんなにも気分が変わるなんて。」


その時、ふと彼の目に映ったのは、小さな白いウサギの置物だった。


どこか愛らしく、そしてどこか物悲しげなその表情に、彼は心を奪われた。


「まるで…今の自分みたいだな。」


そう呟きながら、彼はウサギに手を伸ばした。


触れた瞬間、冷たい感触が指先に伝わる。


その冷たさが、彼の心の中の何かを目覚めさせた。


「このまま…どこかへ行きたい。」


突如として湧き上がる衝動に、彼は戸惑った。


だが、その衝動は次第に大きくなり、彼の胸の内を支配していく。


彼はその感覚に逆らわず、ただ流れに身を任せることにした。


「外に出よう。」


彼は決心すると、そっと部屋を出た。


外の空気は冷たく、夜の静けさが心地よい。


浴衣の裾が風に揺れ、彼の心もまた、揺れ動いていた。


「このまま…このままでいい。」


彼は歩き続けた。どこへ向かうのかもわからず、ただ歩き続けた。


その道中、彼は自分自身に問いかける。


「自分は何を求めているのか?何をしたいのか?」


答えは出なかった。だが、心の中で何かが変わろうとしていることは感じていた。


そして、彼はようやく足を止めた。


そこは、小さな庭園だった。


彼はベンチに腰を下ろし、目を閉じた。風がそよぎ、木々の葉がささやく音が心地よい。


「これでいいんだ。」


彼はそう呟き、ゆっくりと目を開けた。そこに映るのは、自分とは異なる自分だった。


普段の自分ではない、新しい自分。彼はその感覚に包まれながら、静かに微笑んだ。


「これが…自分なんだ。」


そして彼は、何も言わずにその場を後にした。心に新たな決意を抱いて。

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