暖かい
*
空は徐々に暗くなってきていた。腕時計を見ると、時刻は十七時五十分。帰途につく僕の隣には、彼女がいる。
僕達はなんでもないことを話しながら歩いた。生産性のない、友人同士らしい娯楽のためだけの会話。彼女は紫色が好きらしい。
しばらく真っ直ぐ行くと、歩車分離式の信号のある交差点に出る。歩行者用の信号が青く点灯すると同時、ぴょっ、ぴょっ、と惚けた音が鳴り響く。
自分の帰路である右を見てから、彼女は名残惜しそうに振り向いた。僕の住むアパートは、ここを左だ。
「じゃあ、また明日、だね」
「いや、送るよ」
まあどの道、バスに乗らなきゃ二時間コースだし。
隣に並ぶと、彼女はぱっと顔を華やがせた。
「悪漢が出るから?」
「僕が君と話したいからだよ」
更に嬉しそうに彼女は笑う。僕も、笑いたかったから少し笑った。口角を上げて目を瞑る。
ふんふんと調子外れな音楽が聞こえると思ったら、彼女の鼻歌だった。
僕はそれが可笑しくて、また笑う。
「ふふ、楽しそうだね無雲くん」
「君の方こそ」
「楽しいともさ!」
くるくると彼女は両手を広げて回った。転ばないかと冷や冷やしたけど、なかなかの運動神経の持ち主である彼女にはいらぬ心配だったようだ。
「だって君がいるからね! 友達がいるだけで、世界はこんなに美しい!」
大袈裟だな。
苦笑しながら彼女を見る。回ることで広がった彼女の黒髪が、ゆっくりと近付いてきた夜の気配を強くする。淡い街灯の無粋な光が、彼女の髪で星へと変わる。
「同感」
なるほど確かに、美しい。
「あ、そうだ。折角だから、夕飯も食べていかない? ウラミに連絡するから、用意してもらおう」
「呪のが良いな。僕は、君の料理が食べたい」
スマホを取り出そうとした手を、僕は遮る。呪はきょとんとしてから、「なんでだろう、初めて君に名前を呼ばれた気がするよ」 と笑った。
「でも、まだ全然上達してないよ?」
「良いんだそれでも。僕は君が良い」
呪の真似をして言う。「ねえ呪?」 少し照れたようにはにかむ彼女に、僕は続けた。
「あの日、僕は君の料理を食べてこう言った筈だ」
──美味しかったよ。こんなに暖かい食事は、久し振りだった。
「美味しかったというのは、正直嘘だけど」
「う」
「暖かかったというのは、実は本当だったりするんだよ」
出来立ての宅配ピザより、温めたコンビニのお弁当より、僕には君の冷え切った不味い料理の方がずっと。
「…………」
言わなきゃ良かったな。なんていうか、これはなんとも。
小石を蹴飛ばす僕の目の前に、呪はニヤニヤとした笑みで顔を出す。
「照れた?」
「君こそ」
「うん、照れた」
「……くそ」
意趣返しとして言ったのに、認められちゃあ立つ瀬がない。
それから暫く会話は無かったが、沈黙を望んでそうしていたのに呪がずっと嬉しそうにニマニマ笑うので、僕は空気を変えるために適当な話題を投げかけた。
「君はどうして、僕を選んだんだ?」
「ふん?」
「四十人いるクラスメートの中から、どうして僕を……いや、違うか。どうして僕なら、大丈夫だと思ったんだ?」
君はまともに会話も出来ないほどに、人を恐れていた筈なのに。
あの日、偶然に会ったあの墓地で、逃げ去っていてもおかしくはなかった筈だ。
「ああいや、更上が言っていたっけ。僕が孤独だから、目をつけていたんだろうって」
「確かに、めぐるちゃんの言った通りではあるよ。でも、それだけじゃないというか、それはきっかけというか、もうちょっと言い訳が効くんだ。本当のところ、計算高くて嫌な奴みたいだからあまり言いたくないんだが……まあ、このまま言わないのも騙しているみたいで気分悪いしね」
「嫌わないでね?」 と彼女は言う。僕は心から首を縦に振った。
「君、よく一人で窓の外ばかり見ていたじゃないか。その姿がさ、私と同じで寂しそうだったから」
「────」
「だから、友達になってくれるかなあ……って。うーん、やっぱり今思うと計算高くて嫌な感じだなあ」
小さく「そんなことないさ」と返すので精一杯だった。熱い目頭を指で覆い、浅くなった息を通常に戻そうと努める。
これが、更上と呪の違い。決して埋めることの出来ない差。
僕がどうして更上じゃなく呪を選んだのか、疑問にも思っていなかったけど、その明確な答えが今分かった。
そりゃあ誰だって、自分のことを理解してくれる人の傍にいたいに決まってる。
呪は絶対「何を考えているのか分からない」 なんて、言わないだろう。
「それでもこんな、泣きそうになるほど嬉しいのかよ、僕……」
呪は、何も言わずにふんふんと音痴な鼻歌を唄っていた。わざとらしいくらいに大きく。
僕ははぐっと奥歯を噛んで、空を仰ぐ。それから大きく息を吐いて、呪の鼻を摘まんだ。
「ふむっ!? な、ななな何をするんだ! 信じられない、女の子の顔をなんだと思って」
「大丈夫。泣かないよ」
「……む。そうかい」
ありがとうの言葉は飲み込んだ。口にするとそれは随分チープになってしまう気がしたし、呪は言わずとも分かってくれる。それに何より、照れ臭い。
「あ、おーい!」
呪が声を上げながら大きく手を振った。彼女の家の軒先で、ウラミちゃんが小さく手を振り返している。
駆け出す呪を、早足で追いかけた。
「ただいま、ウラミ!」
「お帰り、お姉ちゃん。それと」
つい、と顎を上げて僕の顔を仰いだウラミちゃんは、一瞬睨むような視線を向けてきて、それから目を剥いた。ぼんやりとした瞳が、僅かに揺れる。
「どうかしたのかな。ウラミちゃん」
訊くと、彼女はふるふると首を横に振って、
「いらっしゃい、お兄ちゃん。あの時は、ごめんなさい、でした」
僕を信頼しきった柔らかな笑みを見せた。彼女はそのまま、手を取って軽く引っ張る。
「早く入りなよ。まだ夜は寒いでしょ?」
「そうだね。入ろう無雲くん。風邪をひいてしまうよ」
呪も、僕の空いた方の手を握る。笑みを浮かべながら手を引く二人に、僕も自然と笑みがこぼれた。
「お邪魔します」
ああ、とても暖かいや。
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