第7話:遺影の中の男

週末、冷たい雨が朝から途切れることなく降り続いていた。


ビルのガラス窓を伝う水滴が、街のネオンを歪めて映す。

約束の時間より少し早く、駅前のカフェに着いた。


ガラス越しに中を覗くと、窓際の席に女性が座っているのが見えた。


黒のタートルネックに細身のコート。

肩までの髪は雨に濡れて艶やかに張りつき、整った顔立ちに薄く紅を差している。


その視線がこちらを捉えると、彼女は静かに立ち上がり、軽く会釈をした。

「はじめまして。……私は聖司の元妻です」

その一言で、胸の奥が一気に締めつけられた。


高槻聖司──あの声の主が告げた名。


あれほど探しても見つからなかった人が、今、彼女の口から当たり前のように語られている。

驚き、安堵、そして説明のつかないざわめきが、同時に押し寄せてくる。


私は返事を探しながらも、喉が固くなって言葉が出なかった。

「……その人なら、もうこの世にはいません」

雨音がガラスを叩く音が、やけに近くで響く。


「数年前、心臓の病で急に亡くなりました」

テーブルの上で組んだ自分の指先が冷たくなっていくのを感じた。


──亡くなった人と、私は確かに触れ合った。


その事実が、現実感を失わせる。

「この番号は、もともと彼が使っていた携帯です。

今は私が契約を引き継いでいます」

そう言って彼女は視線を落とす。

「生きていれば三十四歳。……あなたは?」

「二十八です」

「六つ、違うんですね」

その差を口にされた瞬間、何かが胸の奥でかすかに反応した。


年齢、そして……生まれた場所。

彼女はバッグから写真立てを取り出した。


モノクロの中でスーツ姿の男性が、静かに微笑んでいる。


──間違いない。

けれど、どうしてか輪郭が霞んで見える。


ホテルの薄暗い明かりの中で見上げた顔と重なるはずなのに、はっきりと焦点が合わない。

「聖司は、幼い頃に両親が離婚して、父親に育てられました。生まれは鎌倉です」

鎌倉──その地名に、鼓動がひとつ大きく跳ねた。


母から聞かされた、自分の出生地と同じ場所。


偶然だと思い込もうとしても、心の奥で何かが繋がりかけている。

「小学校に上がる前に妹が生まれて……でも、妹は母に引き取られたそうです」

「妹……」

「ええ。聖司はよく、『妹は可愛かった』って話していました」

背筋を冷たいものが伝う。


それが何を意味しているのかは、まだ言葉にできない。

「今日は……来てくれてありがとう」

彼女はコーヒー代をテーブルに置き、淡く微笑んだ。


「また、お話ししましょう」

カフェを出ると、夜風が濡れた頬を冷やした。


雨粒が街灯の光をにじませ、足元に揺れる。

私たちは逆方向へ歩き出す。


背中越しに、彼女の足音が雨に紛れて遠ざかっていく。

──この出会いが、私の運命を変えることになるなんて、

このときの私はまだ知らなかった。


ただ胸の奥で、何かが静かに目を覚ました予感だけが残っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る