第5話:理性を食む記憶
あの夜から、一週間。
時計の針は同じ速さで進んでいるはずなのに、私の中の時間だけが、どこか置き去りにされたままだった。
朝、洗面所の鏡に映る自分を見て、思わず視線を逸らす。
鎖骨の下に残っていた赤紫の痕は、ようやく薄れかけている。
それでも、見ればすぐに胸の奥が熱を帯び、指先が無意識にその場所をなぞってしまう。
──二度と関わってはいけない。
そう言い聞かせても、身体はあの夜の記憶を手放さなかった。
オフィスに着くと、いつもの朝のざわめきが迎えてくれる。
プリンターの作動音、電話の呼び出し、紙をめくる音──。
けれど、すべてが膜越しに聞こえるように遠い。
午前中、プレゼン資料の修正に追われていると、隣の席の真由がふと私を覗き込んだ。
「……最近、なんかあった?」
「え?」
「なんかさ、ぼーっとしてる時間が増えたっていうか。
あの“仕事の鬼”だった璃子が、ちょっと抜けてる感じ」
からかうような声色に、笑って受け流そうとしたが、うまく笑えなかった。
「……別に。何もないよ」
視線をパソコン画面に戻すと、真由はそれ以上追及しなかったが、横目でじっと私を観察している気配がした。
昼休み、同僚たちとカフェでランチ。
メニューの文字が視界に入らないまま、窓の外を眺める。
歩道に立つ男性の背の高さ、黒いジャケット──。
胸が一瞬、高鳴る。
だが振り返った顔は、全く知らない人だった。
安堵と落胆が同時に押し寄せ、私は慌てて水を口に含んだ。
夜九時、帰宅。
ジャケットを脱いだ瞬間、ふと香水の残り香が鼻をかすめる。
──あの夜、彼の吐息に混じっていた香りだ。
気づけば、深く吸い込んでしまっていた。
シャワーを浴び、バスローブのままワイングラスを満たす。
スマホを手に取り、無意識に検索欄へ指が滑る。
「高槻聖司」
何度試しても、どこにも彼の痕跡は見つからない。
まるで、最初からこの世に存在しなかったかのように。
ベッドに横たわる。
目を閉じれば、あの夜の断片が蘇る。
肌を這う指先、耳元に落ちた囁き、奥まで満たされる感覚。
呼吸が浅くなり、腰の奥が熱を帯びる。
触れられていないはずなのに、脈打つような疼きが全身に広がっていく。
シーツを握りしめ、必死にその衝動を押し殺す。
「……もう、やめよう」
暗闇に向かって呟く。
でも分かっている。
本当にやめられるなら、こんなふうに毎晩思い出しはしない。
理性が「忘れろ」と命じるたび、欲望が「もう一度」と囁く。
その声は、日に日に甘く、強くなっていく。
──もし、また彼を見かけたら。
きっと私は、何のためらいもなく、その背中を追ってしまうだろう。
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