第3話:空白の手がかり
会社に戻れば、現実は容赦なく押し寄せてきた。
積み上がったメールの処理、次々に鳴る内線、資料の修正依頼。
モニターの光に顔を照らされながら、私は時おり、バッグの中の白いシャツの存在を意識していた。
香りはもうほとんど消えかけている。
けれど触れるたび、昨夜の光景が淡く蘇る。
──あれは、本当にあったことなのか。
昼休み、デスクに突っ伏すふりをしてスマホを手に取る。
「高槻聖司」で検索をかける。
SNS、ニュース、電話帳……どれも見慣れた名前の別人ばかり。
あの横顔も、声も、どこにも存在しない。
午後の打ち合わせ中も、頭の片隅は彼のことで占められていた。
ノートの余白に無意識に「聖司」と書きかけて、慌てて線を引いて消す。
仕事を終え、マンションに戻る。
冷蔵庫には買い置きのミネラルウォーターと半分残ったサラダだけ。
テレビをつけても、アナウンサーの声は耳を素通りしていく。
ワインを開けて、グラスを傾けながらスマホを再び握った。
──やっぱり、出てこない。
検索窓に名前を打ち込み直しても、結果は同じ。
まるで、この世に最初から存在しなかったかのように。
数日後、私は昼休みを利用して、あのホテルへ向かった。
高層階のラウンジは、平日の昼でも控えめな賑わいを見せている。
窓際の席に腰を下ろし、コーヒーを注文した。
初めて彼と出会ったあの日と同じ場所。
見える景色も、流れる音楽も、何一つ変わっていない。
──ただ、彼がいないだけ。
フロントにも立ち寄った。
「先日こちらにお越しになった方で、高槻聖司さんというお名前の……」
説明し終える前に、スタッフは申し訳なさそうに首を横に振った。
「そのお名前では、ご利用記録はございません」
深々と頭を下げてホテルを出る。
外の風は少し冷たく、春の匂いが遠のいていくようだった。
人波に紛れながら、ふと、背後に視線を感じて振り返る。
けれどそこには、見知らぬサラリーマンたちが足早に通り過ぎていくだけだった。
バッグの中の白いシャツが、妙に重たく感じられた。
まるで、そこにだけ彼の痕跡が凝縮されているみたいに。
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