第3話 シュエラ・アーグレン


 ようやく今日の公務は終わりを迎えた。


 民の反応もすこぶる良く、さらには新人メイドシュエラとも、ループ十回目にして最も良好な関係を築けている。

 

 ここまでは完璧だ。


「セシル様、ここを出てすぐのところに、馬車を用意させて頂いております」


「あぁ、ありがとう」


 感謝の言葉は欠かさない。


 今回、僕が優しさを武器にすると決めた時から、必ず実行していることである。

 

 そして僕たちは行政庁を後にしようとしていた、そんな時、ある会話が耳に入ってきた。

 


「なぁ見たか? また新しいメイドだぞ」


「さすがはディアゴルド家……使えないやつは切り捨てていく。冷徹な悪徳貴族はやっぱり違うねぇ」


「でもさ、メイドなんて横についてるだけでしょ? それでお金もらえるなんて最高。いいなぁ、私もあんな仕事がしたい」


「胸元広げてケツ振って歩いときゃ、いい仕事だもんな。いい身分だぜ」


 あまりに下卑た声だった。


 聞く気なんてなかった。

 でも、足が止まった。


 先に立ち止まったのはシュエラだった。


 静かに、微動だにせず、ただ黙っている。


 ほんの囁き声程度のやりとり。

 普通なら耳にも入らない距離だ。


 だが、彼女には届いていた。


 十度目の人生でも、やはり同じ。


 この場所、このタイミングで、必ず彼女は無言になる。


 俯いたまま、静かに怒りを噛みしめるように。


 その目は冷たい。


 あの瞳、見覚えがある。


 僕を殺したときの、あの目だ。


 心を押し殺しながらも、内側に静かに燃やす激しい怒り。


 彼女は、今まさにそれに囚われている。


 なら、今回は。

 

「そこにいるお前たち、どこの配属だ?」


 僕は彼らに呼びかけた。

 声が静かに響く。


 行政庁の隅で陰口を叩いていた職員連中が、血の気を引いたような顔でこちらを向く。


「セ、セシル様……」


「身分と名前、配属を言え。今の発言を一言一句、報告書に記載しておく」


「あ、あの、違うんです、私たちは――」


「言葉の意味を理解できないのなら、黙っていた方がいいぞ。今後一切、僕の大事な人間にくだらない口を利くな」


 いつもならあんな連中、無視しておく。


 だけどなぜだろう。

 今回ばかりは無性に腹が立った。


 いつもなら見逃していたような罵声。

 なのに、なぜか胸がざわついた。


 シュエラの悪口だったから?


 ……そう、多分そうだ。


 僕専用の優秀な付き人。

 彼女への侮辱は、もはや僕への侮辱。


 きっとそれに憤りを感じた。


 そうに違いない。


「……行くぞ、シュエラ」


「はい」


 短く応じるその声は明らかに震えていた。


 感情を読ませない声音だったけどそれだけに、不穏な空気を纏っていた。

 怒っているのか、傷ついているのか、今の僕には到底分からない。



 * * *



 夜の風が、ディアゴルド城の高窓から静かに吹き込んでいた。


 私、シュエラ・アーグレンは窓辺に佇みながらその風を頬に受ける。


 その温度も、音も、まるであの夜を思い出させるようだった。


 ……あの日、すべてが終わった。


 私の家族も、村の人々も、そしてアーグレン男爵家の誇りも。



 * * *


 ――エルネス高地。


 あれは七年前、八月にして雪が降った。


 異常気象だった。


 地が凍り、畑は死んだ。

 じゃがいもも麦も枯れ、民の胃は空洞を訴え、子供の泣き声が飢餓の中に消えていった。


『必ず援助が来る。ディアゴルド公爵に書状を送った。二週間もあれば――』


 そう信じていたのは、父――ヘルヴィン・アーグレン男爵だった。


 だが、何も来なかった。


 食糧どころか一通の返事すら。


 二週間が過ぎ、備蓄も底を尽きた。


 みんな、みんな、死んでいった。


 そして、私の父様も。


『ヘルヴィンッ!』


 父様の名を叫び、泣き崩れる母様。


『二人は、生きろ……。わたしは自分の食糧には、手をつけていない。残りは二人で分けるのだ。そして、生き残れ。それが、わたしの願、い……』


 私の頭を撫でてくれた父様の大きな手も、最後には床に崩れ落ちてしまった。


 それからは、母様と食事を分け合って、なんとか生きていこうとした。


 二人で生きていこうね。


 もうすぐ助けが来るからね。


 母様は、そうやって私に声をかけてくれた。


 だけどしばらくして、母様も倒れた。


 同じ量の食べ物を食べて、飲み物も同じ量飲んでたのに、母様だけが父様を追うように。


『あなただけは生き延びるのよ、シュエラ』


 母の手は、最後まで私の頬を撫でてくれた。

 あの温もりだけが、ずっと私の中に焼き付いている。


 ついに私だけになってしまった。


 こんな子供一人で、生きていけるわけがない。


 きっと死ぬんだ。

 この食糧が尽きたら、私も父様や母様、村の人たちと同じように。


『おい、こっちだ! まだ生きてる子がいる!』


 そう叫びながら駆けつけてきたのは、中央都市から派遣された騎士団だった。


『まさか定期調査に来ただけだったのに、エルネス高地がこんな事態になってるとはな。ここの当主は救援依頼しなかったのかね?』


『いや、今思えばあったのはあったんだが……』


『ん、どうした?』


『ディアゴルド公爵閣下が行政区にいらっしゃった時、開けずに破いちゃってたんだよな』


『そりゃひでぇな。なんでそんなこと……』


『まぁ、我らがフロイデン地方を治めているディアゴルド家は、血も涙もないって有名だからな』


『まじか。書状が届いてすぐ動いてりゃ、ここの人、みんな助かっただろうに』


 一人の騎士団員の腕の中で、私はそんな会話を耳にした。


 そう、彼らは物資配達ではなく、ただの偶然でここにやってきたのだ。

 

 そうか。

 私たちは見捨てられたんだ。


 私たちが、家族が、村が、死んだのは。


 ――ディアゴルド家の判断だった。


 あの瞬間、すべてが変わった。


 私は、復讐を誓った。



 * * *

 


 その後身寄りのない私は、中央都市の養護施設で育ててもらった。

 

 身分を隠し、知識を学び、体を鍛え、私はようやくの思いで公爵家直属の使用人という地位にまでたどり着いた。


 これも全て復讐のために。


 そしてようやく、それも果たすことができる。


 けれど、なぜだ。


 なぜ、今夜だけは心が揺れている?


『……僕の大事な人間に、くだらない口を利くな』


 あの時の、セシル様の声が胸を締め付ける。


 私を守ってくれた言葉。


 誰かが私のために怒ってくれたのは、生まれて初めてだった。


 それは紛れもなく、彼の優しさだった。


 もしかしたらセシル様は、悪に染められたディアゴルド家にとって、唯一の光なのかもしれない。


 このまま彼を殺せば、そんな希望の芽すら摘んでしまうんじゃないか。


 ほんの一瞬だけ心が揺らぎ、私の手を鈍らせる。


 だけど。


 でも。


「……血は、変えられない」


 私は呟く。


 セシル・ディアゴルドがどれだけ優しくしたとしても。

 この国でどれだけ支持を得たとしても。


 彼の背には、私たちエルネス高地の民を見捨てたあの一族の名がある。


 ディアゴルド家が、父を殺した。


 両親を殺し、村を滅ぼした、悪の権化が。


 だから、私は――


「揺れてなどいない」


 決意を胸に、私は静かに立ち上がる。


 黒い外套を羽織り、短剣を帯びて、音もなく廊下を歩く。


 今夜、私はセシル・ディアゴルドを殺す。


 そして次はその兄弟。


 最後はその死体を前に、現当主のグラウス・ディアゴルド公爵を惨殺してやる。


 それが、アーグレン家の復讐。


 民を捨てた支配者の血に、贖いを。


 静かに扉の前に立ち、手をかける。


 迷いを捨てろ、シュエラ・アーグレン。


 私は、私の復讐をやり遂げるんだ。

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