アーク・クロニクル 〜神々の黄昏と星の継承者〜

すまげんちゃんねる

第1部 偽りの揺りかご篇

第1話 暁の祈り

夜明けはまだ遠い。ライアは夢を見ていた。果てしなく広がる灰色の空の下に独りで立つ夢だ。色はなく音もない。風すら吹かないその世界が彼の知る世界の全てだった。空という言葉の意味すら知らず彼はそれを当たり前の風景として受け入れていた。静寂が支配する夢の世界にやがて澄んだ音が響き渡る。谷に設置された巨大な水晶が打ち鳴らされる目覚めの鐘の音だ。エデン・フィヨルドの厳格で変化のない一日がまた始まる。


ライアは寝台から身を起こした。簡素な部屋には木の寝台と小さな机があるだけだ。彼は窓の外に目をやる。そこにはいつも通りの分厚い雲が空を覆い尽くし谷全体を巨大な蓋のように閉ざしていた。彼は湧き水が引かれた小さな洗い場で顔を洗い身を清めた。冷たい水が眠気の残滓を完全に消し去り彼の意識を覚醒させる。今日は守護神クロノスへの祈りを捧げる重要な日だ。彼は祭具室へ向かい神に仕える者としての純潔を示す純白の儀式服に袖を通した。継ぎ目一つないその滑らかな布地は谷の特別な技術で作られたものだった。


支度を終えて母屋へ戻ると育ての親である老女エリザが朝食の準備をして待っていた。香ばしい焼き麦と木の実のスープ。谷の恵みだけで作られた素朴だが滋味深い食事だ。

「おはようございますエリザ様」

「ええおはようライア。さあお食べなさい。今日も一日クロノス様と谷のために励むのですよ」

エリザは優しく微笑む。しかしライアが食事に集中するその一瞬だけ彼女の瞳の奥に深い憂いと悲しみの色が影のように浮かんで消えた。ライアはその変化に気づかない。彼はエリザの言葉を胸にスープを口に運んだ。「はい。この谷の安寧を守る『神の器』として力の限りを尽くします」その言葉に嘘もてらいもない。彼は自らの使命を心から誇りに思っていた。


家を出て神殿へ向かう。石畳の道を歩くと道すがら出会う谷の住人たちが皆ライアに気づき畏敬の念を込めて深く頭を垂れた。彼は谷の希望そのものなのだ。その視線が心地よくもあり同時に身の引き締まる重圧でもあった。神殿への道の途中いつもの大樹の下で親友のキトが彼を待っていた。

「おはようライア!今日の訓練じゃ絶対負けないからな!」

キトはライアとは対照的に快活で少しやんちゃな少年だ。彼はライアにとって谷で唯一階級や立場を気にせず話せる対等な存在だった。ライアも自然と笑みがこぼれる。「そうはいかないさ。今日こそ僕が勝つ」


二人は並んで神殿へと続く長い石段を上り始めた。石段の両脇には風化した石碑が延々と並んでいる。それらは過去に「神の器」候補者として生まれそして消えていった者たちの名が刻まれた墓標だった。その多くは名前の途中で記述が途切れ風に削られている。その事実がこの谷の歴史の長さをそしてその厳しさを物語っていた。


目の前にそびえる中央神殿は巨大な岩山をそのままくり抜いて造られている。その圧倒的な威容は人の技術を超えた神の偉大さを体現していた。神殿の奥薄暗い祈りの間で谷の指導者であるアルバス長老が二人を待っていた。彼はしわ深い顔に厳格な光を宿しライアの姿を認めると満足げに頷いた。

「来たかライア。お前の中に満ちるアストラル・フォースは日ごとに純度を増している。お前こそがこのエデン・フィヨルドを永遠の安寧へと導く約束の子だ」

その言葉にライアは背筋を伸ばす。


彼は一人で祈りの間へと通された。部屋の中央には「クロノスの眼」と呼ばれる巨大な水晶体が鎮座し内部から鈍い光を放っている。谷の生命線とも言える存在だ。ライアは慣れた仕草で水晶に両手を触れ静かに祈りを捧げ始めた。彼の身体から清浄な霊的エネルギー「アストラル・フォース」が流れ出す。それは奔流となって水晶体へと注ぎ込まれ呼応するように水晶の光が輝きを増した。谷全体が彼の力によって満たされ活性化していくのが肌で感じられる。


祈りの最中だった。ライアの脳裏に一瞬だけ今まで感じたことのない不快なイメージがよぎった。錆びついた鉄の匂い。耳障りな機械の軋む音。そして全てを嘲笑うかのような冷たい視線。彼はそれを自らの未熟さからくる邪念だと判断し強く頭を振って振り払った。再び祈りに集中し終える頃にはあの不快な感覚は消え失せていた。祈りを終えたライアの額には汗が滲んでいる。アルバス長老は彼の純粋で強大な力を目の当たりにしその瞳の奥でかすかな光を揺らめかせた。


神殿に併設された訓練場でライアとキトはアストラル・フォースを具現化させてぶつけ合う模擬戦を始めた。ライアの力はまさしく奔流だ。凄まじいエネルギーの塊が荒々しくキトに襲いかかる。だがその力はあまりに強大で制御が甘く大振りだった。対するキトの力は激流ではなくせせらぎに近い。しかし彼はその限られた力を巧みな技術で操りライアの猛攻をしなやかに受け流す。そして的確にライアの力の隙間を縫って鋭い反撃を繰り出した。


模擬戦はライアが放った力が暴走し訓練場の壁を大きく破壊してしまったことで決着した。

「また負けた…」

うなだれるライアにキトは悪びれもせず笑いかける。「だから言ったろ。力だけじゃダメなんだってさ。もっと頭を使えよ頭を」


訓練の後二人は谷を見下ろす丘に座り心地よい風に当たっていた。眼下にはいつもと変わらない穏やかで平和な故郷の風景がミニチュアのように広がっている。「俺たちがしっかり守っていればこの谷はずっとこのままだよな」ライアは純粋な目でそう語った。

キトも頷く。しかし彼の視線は眼下の谷ではなく頭上に広がる分厚い雲に向けられていた。「なあライア。この雲の向こう側って本当は何があるんだろうな」その問いは谷の掟では禁忌に触れるものだった。

「キト。掟で禁じられてるだろ」ライアは親友をたしなめる。だが彼の心の中にもキトと同じ疑問の種が知らず知らずのうちに蒔かれていた。


二人の視線の先に谷のはずれにある禁じられた区域が見えた。そこは「外」から流れ着いたガラクタの廃棄場だと聞かされている。そして「変わり者」の一族が外界の穢れと共に隔離されて住んでいると噂されていた。


やがて陽が落ち谷に夜の静寂が訪れる。家に戻ったライアにエリザが彼の好きなカモミールのハーブティーを淹れてくれた。その優しい香りが訓練の疲れを癒してくれる。エリザはライアの隣に座り彼の柔らかな髪を優しく指で梳いた。そしていつものように彼が生まれた日の話をする。神殿が七日七晩光に包まれ谷中の人々が奇跡の誕生を祝福したという物語だ。ライアはその話を何度も聞いていたがエリザが語るその日の光景はいつも彼の心を温かくした。


眠りにつくライア。彼は再び灰色の空の夢を見る。しかし今夜はいつもと違った。夢の中の果てしない静寂の中に微かに混じる異音。それは錆びついた鉄が軋むような不吉な音。彼の知らない世界の音が閉ざされた揺りかごのすぐ外側で確かに響いていた。

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